Mousou-Eiga Blog

映画を妄想で語ったり語らなかったり

【考察『シン・ゴジラ』】ゴジラに魅了された矢口。彼はどうしても自らの手でゴジラを倒したかった。

 2020年7月29日で「シン・ゴジラ」公開4周年。今年から始めた当ブログでいつか扱おうと考えていた映画なため、この機会にと公開時から感じていた矢口蘭堂に対しての違和感を語ってみようと思う。最後までお付き合いいただけたら幸いである。

 矢口はゴジラに魅了されていた

 矢口蘭堂巨災対を率いてゴジラに立ち向かう本作の主人公だ。ゴジラが日本を脅かす敵だとすれば、矢口はそれを倒す正義の側である。

 先入観にとらわれず、早くから巨大不明生物の存在を示唆し、実力ある人間は地位や立場に関係なく招き入れ、コネがあるなら遠慮なく使い、その正義感で最後まで日本を救うために全力で尽力する正に新時代の政治家だ。理想主義者な面はあるが、返ってそれが核を使わせずにゴジラを倒すことにも繋がったと言っていい。

 そんな非の打ち所がないほど完璧に主人公をしている彼だが、私は同時に強烈な違和感も覚えていた。彼は本当に正義の人なのかということだ。むしろ、本作の登場人物の中で一番ゴジラに魅了され、その存在を喜んでいた人物なのではないのかと。

 何故、私がそう感じるのか。それをこれから根拠も交えて解説していく。

最初の映像から"巨大不明生物"に惹かれ始めていた矢口

 一般市民が投稿した巨大不明生物の映像を食い入るように見つめる矢口。この映像が本物なのか、映っているものはなんなのかを確認しているシーンであり、真っ先に最新情報が出回っている可能性のあるネットで調査をしているという、矢口が他の旧態依然とした頭の固い政治家とは違う柔軟さを備えていることを示すシーンだ。

 だが、私はこれだけではないと見ている。既に矢口はこの得体の知れない生物に惹かれ始めているのだ。それは秘書官である志村祐介に呼ばれるまで画面に釘付けな様子、そして矢口の性格もあるが巨大不明生物の存在を食ってかかるように進言していることからもうかがえる。彼は最善の災害対策を行いたいのと同時に、皆に生物の存在を知って欲しい、認めて欲しいのだ。

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食い入るようにスマホを見つめる矢口。理想主義の彼は未知の存在にも興味を示す。

「凄い……まるで進化だ」完全にゴジラに魅了された矢口

 巨大不明生物が俗にいう蒲田くん(第2形態)から品川くん(第3形態)に変態した場面で、矢口は目を見開き「凄い……まるで進化だ」と口にする。ここから矢口は既におかしい。

 得体の知れない生物が更に形状変化させたのだから、普通なら戸惑い恐怖するはずだ。だが、矢口は違った。「凄い……」と感嘆しているのだ。これは思わず口から出てしまった言葉なのだろう。おまけに「まるで進化だ」と付け加える。変化や変態とするなら分かるが、進化という言葉はあの場面では直ぐには出てこないだろう。賛美しているとすら言える。なので、このシーンは矢口がゴジラに完全に魅了された瞬間といえるだろう。そして、それはこの映画を観ている我々も同じだ。「シン・ゴジラ」初見時は今までのゴジラとは似ても似つかない蒲田くんの姿に、誰しも「この生物はなんだ?」と思うだろう。そして、それがよく知った"ゴジラ"の形に近づいていく。そこで我々は思わず思う「凄い……」と。まさに"進化"じゃないかと。そう、矢口の目線は我々とシンクロしているのだ。矢口はもう完璧な"ゴジラファン"である。

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目を奪われるとは正にこの事。巨大不明生物に彼はすっかり魅了されてしまった。
名前を付けることに意味がある

 巨大不明生物はカヨコが持ってきた牧教授の資料から、大戸島に伝わる神「呉爾羅」にちなんだ名があり、英名で「GODZILLA」とされていることが分かる。ここで巨大不明生物が正式に"ゴジラ"とされるわけだ。この時の矢口の反応もまた面白い。「本来のゴジラにしよう」と言った時が妙に嬉しそうなのだ。まさに大好きな存在を名前で呼ぶことができたことに喜びを感じていると言っていい。大河内総理の「名前は付いている事が大切だ」という言葉通り、矢口にとって名前というのは重要だったのだ。名があるということはその存在を認めるということでもある。そう、この映画で明確に"虚構"である"ゴジラ"が認められ、"現実"となる。それは映画を観ている我々も同じだ。よく分からなかった生物に名が付き、「ああ、あの生物はゴジラなんだ」と安心するのである。

 この直後に赤坂が「名前なんてどうでもいい」と発言するのも面白い。現実主義者の赤坂を象徴するシーンだ。彼にはあの生物の存在は到底受け入れられないのだ。赤坂が"ゴジラ"と呼ぶことは一度もない点からしてもそれが窺える。矢口と赤坂はゴジラのスタンス対しても非常に対照的だ。

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いつまでも無名のままでは、あの生物はいつまでたっても「ゴジラ」にはならない。

ゴジラを神格化し始める矢口

 ゴジラが鎌倉さん(第4形態)に進化し、日本に再上陸する。ここから矢口のゴジラへの熱は更に増していく。

 まずはこの台詞「更に進化したゴジラ第4形態です」と言う場面。まるで推しの成長を自慢するオタクのようである。

 そして次。タバ作戦が失敗し、ゴジラが人間の手には負えない恐るべき生物だと判明する。ここで矢口が口にするのはまたしても恐れや戸惑いではない。作戦が失敗しているのにも関わらず、自衛隊のように悔しがったり、この先を憂うこともしない。「まさに人智を超えた完全生物か」とゴジラを神格化するかのような言動をする。いや、もう矢口にとっての神となっているのだろう。国家を守る立場の人間として徐々にズレてきている。

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彼にはもうゴジラしか見えていない。

ゴジラを実際に見れて感動の矢口

 米軍によるゴジラの攻撃が決定し、矢口らも政府官邸から避難することになるが、ここでようやく矢口はゴジラをこの目で見る。生ゴジである。

 「あれがゴジラか……」と呟き、その存在を見つめる彼は正に信じる神を見つめるかのよう。今までモニター越しの"虚構"でしかなかった存在が、ついに"現実"としてその前に現れたのだ。もし、ゴジラファンである我々の目の前にゴジラが実際に現れたとしたら、この矢口のように呟いてしまうだろう。

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矢口の目線はゴジラファンと大差ない。

ゴジラの出す"光"に魅入される矢口

 矢口がゴジラに魅了されている面が如実に表れている場面がここだ。

 俗にいう内閣総辞職ビームのシーン。ゴジラは米軍機の攻撃から身を守るために、光線状の放射線流を放つ。成す術もなく米軍機が叩き落されていくのを矢口は避難も忘れて食い入るように見つめる。志村に避難するよう言われるまでずっとである。ここが冒頭の部分と重なってくる。

 矢口はゴジラの脅威を目の当たりにしても尚、その圧倒的な力に魅了されている。いや、更にそれが強まったと言える。彼はどんどんゴジラに魅入られてしまう。矢口は神の光に照らされてしまったのだ。

 それはある意味カヨコも同様である。彼女はハッキリと「まさに神の化身」だと言う。矢口に比べればその力に恐怖している面は大きいだろうが、彼女もまたゴジラに魅了された一人と言えるだろう。

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ゴジラの光に釘付けとなる矢口。もはや神の光だ。

どうしても自らの手でゴジラを倒したい矢口

 矢口は恐らく自分がゴジラに魅了されていることに気付いていないだろう。ゴジラは日本を脅かす敵であり、倒さなければいけない存在だと考えているはずだ。

 核攻撃ではなく、日本のやり方でゴジラを倒そうと奮闘する彼の姿は正に"正義"の主人公だ。

 しかし、私はそこに彼の異様というか病的とも言えるこだわりを感じてしまう。

 「絶対に自分がゴジラを倒したい

 自分の信じるゴジラを、頭の固い官僚や核にこだわる米軍ではなく、誰よりもゴジラを分かっている自分が"ゴジラを倒すに相応しい"。そのように無意識に思っているようでならない。

激高するのはこだわっている証拠

 大人気水ドンシーンに、この矢口のこだわりが表れていると私は考えている。

 このシーンは、いなくなった者にすがっている志村に対し、もう残ったものでやるしかないと叱る要素とそれでも彼らに頼っていた自分、不安を隠せない自分への憤りで激高する場面だが、同時に「俺ではできないっていうのか!?」という彼の意地を見てしまう。

 「俺が残っているのになんでいなくなった者をアテにするのか?俺ならやれる!俺が一番ゴジラを上手く倒せるんだ!

 まさに愛憎。自分の神を自分の手で倒す。ゴジラに魅了された矢口だが、ゴジラをこのまま生かしておくわけにはいかないのは分かっている。なら、別の誰かに倒されるより自らの手で倒したい。神殺しへの執着を矢口は見せているのだ。

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「まずは君が落ち着け」誰もが真似した伝説の水ドンシーンだ。彼のゴジラ狂いも落ち着いて欲しいものである。

今の状況が楽しい矢口

 矢口が泉に何故政治家になったのか問われると、「政界には敵か味方しかいない。シンプルだ。性に合ってる」と答える。

 この"敵か味方しかいない"というのは正に今の日本の状況だ。敵はゴジラ、味方は自らが率いる巨災対含む日本だ。矢口の性にぴったりと当てはまる。

 矢口にとって"今の日本"は自分の性にあった理想的な世界だ。ゴジラが出現したことで、政界だけでなく日本そのものが敵か味方しかいないシンプルな構造になったのである。泉の問いに対して笑みを浮かべている点からしても、楽しくて仕方ないはずだ。

 彼こそが"ゴジラの出現を誰よりも喜んでいた"のではないかと私が考えるのはここである。

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今の状況こそ、矢口の好むシンプルさそのものだ。

巨災対に喝を入れる矢口

 生き残った巨災対メンバーに「最後までこの国を見捨てずにやろう」と矢口が演説するシーンは、ゴジラ打倒に我々も登場人物も一丸となる熱い場面だ。

 だが、矢口にとっては単にゴジラを打倒すればいいわけではない。自分がゴジラを倒すことが重要なのだ。だから"最後まで"と念を押す。ゴジラを倒すまでは絶対に諦めるなよ、逃げるなよということだ。例え日本が滅びる事になっても。

 ここら辺から矢口のある種のサイコパス的な側面が表れてきていると私は考えている。

赤坂に食ってかかる矢口

 ゴジラに熱核攻撃が行われると決まった後、矢口と赤坂は屋上で論争する。彼らのスタンスの違いが明確に分かる印象的なシーンだ。

 矢口は核攻撃を反対する。当然であろう。日本に三度目の核を落とすわけにはいかないからだ。だが、矢口にとってそれは建前だ。本音は核を落とされると自分がゴジラを倒すことが出来なくなってしまうところにある。彼のゴジラへのこだわりは止まる事を知らない。

ヤシオリ作戦部隊に対して「死んでくれ」と命じる矢口

 ヤシオリ作戦開始が決まり、舞台に対して演説する矢口の場面は正に日本が生きるか死ぬかは全員にかかっているのだと伝える感慨深い場面だ。

 ここで矢口は「生命の保証はできないが実行してほしい」とハッキリと述べる。つまり、「日本のために、ゴジラを倒すために死んでくれ」と言っているのだ。目的のためには手段を選ばない矢口のある種のサイコパスな面がここにあるように思う。

 だが、これは時には非情な決断をしなければならないリーダーとしての素質を矢口が備えているともいえる。国家的な危機に対し、犠牲を強いる決断ができるのは大きな利点だ。

 「国の為に、ゴジラを倒す為にその命を俺に預けてくれ」それを自らの口から表立って言える。責任は全て自分が背負う。次世代の日本を率いる器が彼には確かにあるのだ。

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包み隠さず、はっきりと告げる。ここまで言えるリーダーが果たしてどれくらいいるだろうか。

凍結したゴジラを前に決意表明する矢口

 ヤシオリ作戦により、ゴジラは凍結された。だが、それは一先ずの危機の回避であり、先延ばしにしたに過ぎない。明確にはゴジラを"倒していない"のだ。

 だから、矢口は「事態の終息には程遠い」と口にする。それはこれからの政界での戦い、日本の復興も意味しているだろう。だが、矢口にとってはそれだけではない「まだまだゴジラと戦える」ということも意味している。ゴジラがいる限り、日本は敵と味方しかいないシンプルな世界のままである。矢口にとって理想な世界が続く。そして、自らの神であるゴジラも健在だ。

 「またゴジラが動き出したら今度こそ俺が倒す。次は国のトップとして、総理大臣として」

 彼にとって総理大臣になることは重要ではない。自らが先頭に立ちゴジラを倒すことが重要なのだ。それには総理大臣になることが一番いい。今度は巨災対だけではない。自衛隊も含めて全てを自分で指揮し、神を倒す。そんな決意を彼はあの眼差しに込めている。

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こちらに力強い眼差しを向ける矢口。「次こそは必ず倒す。その時は君も一緒だ。俺に付いてきてくれるか?」そう問いかけているようだ。

 以上が、私が矢口に対して感じていることだ。妄想も多いにあるだろう。だが、矢口にとっての"好きにする"ことは自らの手でゴジラを倒すことであったのは間違いないだろう。