Mousou-Eiga Blog

映画を妄想で語ったり語らなかったり

【アナ雪特集#5】『アナ雪2』メイキング4話感想。大きな変更の前が知りたい。お~しえて!その内容を!

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アナと雪の女王2』メイキング『イントゥ・ジ・アンノウン』もついに4話目。

 今回の題名は「大きな変更」だが、それに相応しい内容であり、もう何度も言っているが"衝撃"だった。

 4~6話がいっきに公開されたこともあって、既に全話見たわけだが、5話以降は割とあっさりしていたため、いろいろと考察を交えてメイキングについて書くのはこれが最後になるかもしれない(5、6話は感想として記事にはする)。

やっぱり当初は「大人向け」に作っていた『アナ雪2』

 私はメイキング2話の感想で『アナ雪2』は最初は大人向けに作っていたのではないかと推測したが、それはどうやら当たっていたようだ

 自分の【アナ雪特集#3】『アナ雪2』メイキング2話感想からの引用

前作から6年も経ち、ファンの多くがそれなりに大人になっていることも考え、いっそ大々的に大人向けにしてしまえというのはあったかもしれない。現行の本編も子供には理解が難しい描写が多いので、その名残りはあるように思う。

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 これは今回のメイキング4話で、バック監督が「今回は大人向けに作ってある」とぶっちゃけていたり、一般向け試写*1での反応から内容を「子供向けに変更した」という事実が語られたので確かなことである。

 それがどんな内容だったのかは知る由もないが、大筋は変わらなくても少々難解な表現が多かったようである。

一般試写での反応

 一般試写の客層が6歳くらいの子供が多くいると聞いた時のリー監督の「ええ?理解できるといいけど…」と少々狼狽えていたのが印象深い。

 リー監督は「ファミリー層だから8歳以上でしょ?」と言っていた点からして、ある程度知識や思考力が付いてきた年齢を対象に想定していたようである。リー監督は6年前に『アナ雪』を見た人へのプレゼントとして、そして大人になって2を見ることでまたいろいろと考えて欲しかったのだろう。

 それは変更がある前のジョシュ・ガッド氏のアフレコ時のインタビューにも表れている。ガッド氏は「オラフが少し成長して知識を付けたらどう振舞うのか」「前作を見た人にちゃんと応えてあげないといけない」と話していた。ガッド氏は変更前の脚本を読んでいるわけで(流出防止にオラフのシーンだけ渡されている可能性もあるが)、彼の心構えというだけかもしれないが、『アナ雪2』がそのような方向性で作られていたことが窺える要素の一つだろう。

 結果としては、大人の評価は高かったが子供からは理解しにくくて不評だったらしく、「子供向け」にするために半分くらい直す事になってしまった(半分って多くない?)。

 ただ、「大人向け」にしていた名残は至る所に残っている上に、「子供向け」にしたとは言っても全体的には十分に「大人向け」であろう。

 それは私の『アナ雪2』での記事でも触れているので是非読んでいただきたい。

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 ちなみに一般向け試写が終わった後に、スタッフの一人が「恋の迷い後をカットするんだったっけ?」って冗談を言っていたのが面白かった。あー皆さんやっぱりアレを異質に思ってるんですねぇと。

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「今回は少し大人向けにしてるんですよ。なにせ姉妹のベッドシーンがありますからねぇ…うぇへへへ」と語るバック監督(言ってねぇ!)
まるで死刑囚のような皆さん

 一般試写後の会議は監督含めたスーパーバイザーなどの上層部のみで行われるため、基本的に一般クリエイターは締め出される。その間、全ての作業はストップされる。

 「どのシーンが残るのか全く分からない。カットされなければいいけど…」などと不安に駆られながら集まって話すクリエイター陣は、まさに刑の執行を待つ囚人のようでちょっと面白かった。

 カットが決まれば、そのシーンは映画から消える。死刑宣告と同じである。

 データは闇の中へ

 カットされたり変更のあったシーンは基本的に全て消去されるようである。「朝来たらマジでデータ全部消えてたんすよ」と話すクリエイターが印象に残った。笑って話してはいるが、精魂込めて作ったシーンが全く残らないとは、結構精神に来ると思う。もう見返す事すらでいないのだから。

もったいないカットシー

 メイキングでは一部ではあるが、変更に伴って本編からカットされたシーンを見ることができた。それが「オラフが生き返るシーン」の別テイクである。

 この映像があまりにも綺麗だったので「何故カットした!?」という感情が渦巻いた。

 担当したオラフのアニメーション監修のトレント・コーリー氏もなんとか自分を納得させようとしていたけど、物凄く悔しそうだった。何せライティングまで始まっていたのだ。まさかカットされるとはと相当なショックだったはずだ。おまけに、一つのシーンには何人ものクリエイターが関わっている。監修の立場からしても辛かったに違いない。

 それは詳しくシーンについて解説していることからも伺える。

 このシーンは現行の本編と違って、オラフの身体は地上の至るところにバラバラに散らばり、水滴となって植物などに付着している。それが恐らくエルサの魔法によって結晶化し、オラフを形作る演出になっていたようだ。

 端的に言ってかなり素晴らしい!まさに本編に繰り返し出てくる「水には記憶がある」という言葉そのものではないか。森羅万象、水は至るところに流れており、それには当然記憶だってありますよと。オラフの命は失われたが、身体があちこちに散らばったことでそこで記憶と生命力を与えられた(保存された?)。そして、そこに流れる水と一体になった事で、オラフは元の身体に戻った際に記憶も性格もそのままだったと解釈可能だ。

 現行の本編の復活シーンよりも納得感のあるものになっていた可能性が充分にある。

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葉っぱから水滴が浮かび上がり、雪の結晶となって飛んでいく。実に美しいシーンだ。

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こちらは水溜まりから水滴が浮かび上がる。オラフの記憶が水を通して復活するのだ。

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このシーンだけでも、ライティングのスタッフ、植物を描いた人など10人以上が関わっている。カットされて影響を受けるのは一人だけではないのだ。

 おそらく、オラフが生き返ったというのを視覚的に分かりやすくすることにしたのだろうが、これは変えてはいけなかったのではないだろうか。子供には分かりにくいというのはそうかもしれないが、子供だって馬鹿ではない。何かを感じ取ってくれるはずだし、分からなくてもちょっと成長した後に見れば理解できることだってある。何も子供に全てを理解させる必要はない。例えばジブリ作品などは大人になってからの方が発見が多い。そんなアニメ映画でも良かったのではないのか。

 変更前の本編はもう見れないので、本当に意味不明なシーンだったのかもしれないが、私はこのシーンが全編見てみたい。それくらい美しかった。

 これ以外にも、中にはSNSでクリエイターが上げているカットシーンもあるので、探してみるといいだろう。

代わりに加わったシーンは本当に必要だったのか

 多くのカットシーンが出たが、追加されたシーンもある。その一つがオラフが一人芝居で前作のストーリーを語る、通称「オラフ劇場」である。

 これは複雑なシーンをシンプルにし、笑いを加えるという方針により追加されたわけであるが、果たして本当に必要だったのだろうか。

 確かに、私の124回の鑑賞の中でも、このオラフ劇場はマティアスの「What!?」やパビーオラフで笑いは起きていたので(スタッフにもめっちゃ好評だったようで。リー監督とか超笑ってたし)、笑いを入れるという点では成功だろうとは思う。

 しかし、前作のエピソードをそこそこの時間を割いてまでわざわざ説明する必要性があったのかは疑問だ。私はこのシーンは初見時にちょっとくどいなと思ってしまった。なぜなら、もう知っている話をオラフが変な動きで説明しているに過ぎないからだ。子供は変な動きだけで笑うのでその点ではありだが、これを入れるよりはもうちょっと映画のストーリーを掘り下げるものが欲しかった。まあ、そういったシーンが分かりにくいからとカットされてしまったのかもしれないが。

 ただ、映画のプロット解説としてはかなり優れたシーンであり、『アナ雪』という映画の説明はあれで十分である。一応、シナリオライターをやっている身としてはオラフのログライン作成能力に軽く嫉妬してしまった。私もオラフのようなストーリーテラーになりたいものだ。

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大好評だったパビーオラフ。まあ、シュールですよね。

一般試写の功罪

 一般試写はやらないよりはやった方がいいとは思う。何故なら、クリエイターは自分の作品というものが基本的に分かっていないからだ。どのクリエイターにも頭の中には壮大な物語が出来上がっていて、それを作品で表現で出来ているつもりなのだが、実際はそうでなかったりする。自分の作品には愛があるのは当然で、故に盲目的になってしまうのである。しかし、観客はそういったものがないので客観的に作品を判断し、それが面白いかつまらないか、あるいは作り手の想像を超えた解釈をして提示してくれる。そのキャラクターに相応しくない行動をさせていればズバリと指摘が入るだろう。だから、監督らも語っているように「一番大切なのは観客の反応」というのは事実だ。それを反映して変更するというのは、当然駄作になる確率が下がるし、"多くの"人に楽しんで貰える映画になる。

 だが、変にその意見に左右されるのもどうなのかとも思う。そもそも、この一般試写というのは、"その"作品を見に来る人ではなく、どの作品が上映されるかを知らされずに集められた人たちである。いくら『アナと雪の女王(Frozen)』が大ヒット作と言っても当然見ていない人もいるし、興味のない人もいる。そのような人が混じる中で試写をして、果たして作品の正統な評価が得られるだろうか。幅広い層からの意見を聞けるメリットはもちろんあるが、作品内容を左右する重要な使命を無作為に選んだ観客に与えてしまっていいのだろうか。

 おまけにこの試写は未完成映像も含まれているので、視覚から得られる情報や刺激などが弱い。映画として充分ではないものを見るのだから、その評価も充分でない可能性が捨てきれない。

 ストーリー・トラストでの意見で部分的に変えていくならまだしも、観客の意見で半分も変更する判断は果たして適切だったのか。これでは観客が映画を作ったようなものだ。

 映画は外に出した時点である種の公共物となり、観客のものになる。だが、観客に作らせるのは違うのではないだろうか。商業映画である以上、観客の望むものを作るのは当然として、クリエイターが作りたい物、伝えたいものがブレ過ぎてもよくない。

 一般向け試写の結果に偏重しているように感じるので、本当に変更が必要なら変えるというフラットなものでいいように思うのだが、どうだろうか。

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一般向け試写後の会議はカメラNGだったため、どのような意見が一般客から出ていたのか、どのような方針のもとに変更があったのかは分からず。見たかったが、変更前のバージョンを知られることを防ぐため(企業秘密的な)、一般客のアンケートなためプライバシーを守るためもあるだろうから仕方ない。

アニメーション作成の現場

 今回の4話は、結構アニメーターの仕事ぶりを見れたのも大きい。ディズニーのクリエイターはやはり優秀な人材が集まっているのだと再認識させてもらった。

大切なのは信憑性

 視覚効果チーフを務めたマーロン・ウェスト氏が非常に重要な事を語っていた。ウェスト氏はサラマンダー(ブルーニ)や彼の出す炎を例に出しながら「大切なのはリアリズムではなく信憑性」と解説している。これはプロですら見失ってしまう重要な観点だ。

 例えば、現実的ではないからとサラマンダーの炎を煙を出すめちゃくちゃリアルな炎にしてしまったらどうなるだろうか?それはただの炎であり、サラマンダーの出す魔法の炎ではなくなってしまう。だが、あまりにもフィクション的過ぎると途端に嘘っぽくなる。そこで視覚的にはフィクションな炎に現実の炎の動きを加えると、"サラマンダーの炎"として観客の目に映る。サラマンダーも架空の生き物だからと、好き勝手な動きをさせてはただのCGにしか見えないだろう。そこで現実の犬やトカゲ等のエッセンスを少し加えていくことで、その世界で生きている生物として見えるようにするのだ。これを間違えてしまうと観客は映画から現実に戻されてしまう。つまり、現実ではありえない存在であっても、その世界観に合っていれば、観客はその世界に入って行けるのである。

  これを明確に語る人はなかなか見なかったのでとても感心した。ウェスト氏はかなり優秀な人物だというのが伺える。本作のアニメーションの効果が"嘘っぽくない"のは氏のおかげなのは間違いない。

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エルサしか目に入らないかもしれないが、サラマンダーにどの動物のどんな特徴が反映されているのか注目してみよう。

作画ではなく撮影

 レイアウト部門のフアン・E・エルナンデス氏が見せてくれた映像の制作過程も面白かった。

 彼が「レイアウト部門はカメラ部門みたいなもん」と話すように、『アナ雪2』というかCGアニメーションの場面作成は作画というより完全に「撮影」である。

 洞窟でアナとオラフが会話するシーンを例に解説しているが、演じている役者をカメラで撮影するのと全く一緒なのである。

 なので、一回作画してしまうと描き直す以外修正できない2Dアニメーションと違って、あらゆる構図やライティングを試して最適なものを決めることができる。これは3Dアニメーションの強みといえるだろう。

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何台ものカメラが置かれている。完全に撮影だ。

水の進化はCGの進化

 水をCGで表現するのはかなり難しく、昔から課題だった。あの『ロード・オブ・ザ・リング』の視覚効果が評価されたのは、水が非常にリアルに描かれていたからだという部分がある。水の表現が豊かになればなるほど、CGも進化していると言える。常に隣り合わせな関係なのだ。

 本作は美しい水の描写が多いが、それに至るまではやはり苦労があったようだ。水の視覚効果担当のエリン・ラモス氏が、それを解説している。

 クライマックスの洪水のシーンを例に出しているが、最初は完全に泡みたいな感じであった。これだけCGが発達した今でも水の描写は難しいということなのだ。最適なものができるまでシミュレーションを何度も繰り返すそうだ。

 エリン氏は「コントロールされたカオスを作っている」と話す。水の動きは『ジュラシックパーク』でイアン・マルコムが解説していたように予測不可能で無秩序、カオスなのだ。だけど、アニメーションを作るにあたって完全にカオスではいけない。そのように見えるものを作らないといけないのだ。

 これが水の難しさであり、魅力なのだろう。

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まだ未完成の時の水の映像。洗剤のCMみたいに泡っぽい。この泡っぽいのが本編でどうなったのかは皆さんはご存知のことだろう。

アニメーターへの配慮

 これは感心したことなのだが、カットされて凹んでいるクリエイターをちゃんとフォローしていたことである。これがあるのとないのとでは、モチベーションに大きな差が出る。辛いだろうが励みにはなるであろう。

 前述のオラフが生き返るシーンを含め、8つのシーンがカットされた悲劇のコーリー氏もパビーオラフの監修をすることで心のよりどころを見つけたようである。何だかんだで自分の仕事は無駄ではないと思えるのだから、いい環境なのだろう。

 そして、追加作業への配分をしっかりやっているのも好印象だ。プロデューサーのピーター・デル・ヴェッチョ氏が「アニメーターが一週間で作れるのは3秒分だ」と話しており、それに沿って可能な範囲で作業を配分しているのを見ると、無理な量を押し付けるのではなく、きちんと理解して考えているのがよく分かる。

 追い込み期間なのでかなり大変だろうけど、それだけ頼れるアニメーターがいるというのはやはり強い。

間に合わなかったことはない

 ピーター・デル・ヴェッチョ氏が言うに「公開に間に合わなかったことはない」らしい。まあ、実際に公開日にちゃんと公開されたのだからその通りなのだろう。

 しかし、ここまでカツカツだともうちょっと延ばしても良かったのではとも思ってしまう。が、もし数ヶ月遅れていたら新型コロナウィルスの大流行に完全にバッティングしてしまっただろう。なので、結果的にその判断は正しかったわけである。

 つまり、締め切りを守るのは大事というわけですな。

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エルサ顔負けのドヤ顔をするデル・ヴェッチョ氏。完全にフラグだが、果たして間に合うのだろうか。

大人向けとはどう大人向けだったのか

 ベッドシーンがあるとかではないのは確かだと思うが(いや、ありますけどね?)、子供には難解だと思ったから直したというのがやはり引っかかる。そして、シンプルにして笑いを増やしたと。それが「子供向け」なのはあなたの感想ではと思うのだが、その方向で出来上がってしまったものはしょうがない。

 でも、どんな内容だったのか知りたい!教えて、その内容を!

 カットされたオラフが生き返るシーンは逆に分かりやすいんじゃないかと思うのだが…。ざっくりとしてよく分からないよりかは、よく分からないけど映像として素晴らしい方が遥かにマシだ。このシーンだけでなく、シンプルにしたせいで返って分かりにくくなってしまったということは無いだろうか。単純にするということはそれだけ描写も減るわけだし。

 当初の『アナ雪2』は台詞も難解で抽象的な表現が多かったが、映像を見て考えれば分かるようになっていたのかもしれない。いや、現行もそうではあるのだが、あまりに端折られている気がするのだ。

 もし、変更がなく、「大人向け」のままでいっていたとしたら、ディズニーアニメーション映画では割と画期的な「続編で大人向けに舵を切った作品」として残ったようにも思う。当然、子供からの評価は下がり、今よりはヒットしなかったかもしれないが、映画として高評価を受けていた可能性はある。

 変更前のバージョンを見る術がないので、これらは完全な妄想である。本当に酷かったので変更して正解だったってことも当然あるわけだ(カットされた人の反応を見るにそうでないように思えてならないが…)。

 脚本だけでもいいから変更前のものが見れれば諦めもつくのだが…

 『スター・ウォーズ EP9』みたくリークされねぇかな…

 

*1:ハリウッドでよく行われている、完成前の作品を観客に見せてその反応を見るというもの。そこで出た意見で大きく内容が変更されることがある。

【考察『シン・ゴジラ』】ゴジラに魅了された矢口。彼はどうしても自らの手でゴジラを倒したかった。

 2020年7月29日で「シン・ゴジラ」公開4周年。今年から始めた当ブログでいつか扱おうと考えていた映画なため、この機会にと公開時から感じていた矢口蘭堂に対しての違和感を語ってみようと思う。最後までお付き合いいただけたら幸いである。

 矢口はゴジラに魅了されていた

 矢口蘭堂巨災対を率いてゴジラに立ち向かう本作の主人公だ。ゴジラが日本を脅かす敵だとすれば、矢口はそれを倒す正義の側である。

 先入観にとらわれず、早くから巨大不明生物の存在を示唆し、実力ある人間は地位や立場に関係なく招き入れ、コネがあるなら遠慮なく使い、その正義感で最後まで日本を救うために全力で尽力する正に新時代の政治家だ。理想主義者な面はあるが、返ってそれが核を使わせずにゴジラを倒すことにも繋がったと言っていい。

 そんな非の打ち所がないほど完璧に主人公をしている彼だが、私は同時に強烈な違和感も覚えていた。彼は本当に正義の人なのかということだ。むしろ、本作の登場人物の中で一番ゴジラに魅了され、その存在を喜んでいた人物なのではないのかと。

 何故、私がそう感じるのか。それをこれから根拠も交えて解説していく。

最初の映像から"巨大不明生物"に惹かれ始めていた矢口

 一般市民が投稿した巨大不明生物の映像を食い入るように見つめる矢口。この映像が本物なのか、映っているものはなんなのかを確認しているシーンであり、真っ先に最新情報が出回っている可能性のあるネットで調査をしているという、矢口が他の旧態依然とした頭の固い政治家とは違う柔軟さを備えていることを示すシーンだ。

 だが、私はこれだけではないと見ている。既に矢口はこの得体の知れない生物に惹かれ始めているのだ。それは秘書官である志村祐介に呼ばれるまで画面に釘付けな様子、そして矢口の性格もあるが巨大不明生物の存在を食ってかかるように進言していることからもうかがえる。彼は最善の災害対策を行いたいのと同時に、皆に生物の存在を知って欲しい、認めて欲しいのだ。

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食い入るようにスマホを見つめる矢口。理想主義の彼は未知の存在にも興味を示す。

「凄い……まるで進化だ」完全にゴジラに魅了された矢口

 巨大不明生物が俗にいう蒲田くん(第2形態)から品川くん(第3形態)に変態した場面で、矢口は目を見開き「凄い……まるで進化だ」と口にする。ここから矢口は既におかしい。

 得体の知れない生物が更に形状変化させたのだから、普通なら戸惑い恐怖するはずだ。だが、矢口は違った。「凄い……」と感嘆しているのだ。これは思わず口から出てしまった言葉なのだろう。おまけに「まるで進化だ」と付け加える。変化や変態とするなら分かるが、進化という言葉はあの場面では直ぐには出てこないだろう。賛美しているとすら言える。なので、このシーンは矢口がゴジラに完全に魅了された瞬間といえるだろう。そして、それはこの映画を観ている我々も同じだ。「シン・ゴジラ」初見時は今までのゴジラとは似ても似つかない蒲田くんの姿に、誰しも「この生物はなんだ?」と思うだろう。そして、それがよく知った"ゴジラ"の形に近づいていく。そこで我々は思わず思う「凄い……」と。まさに"進化"じゃないかと。そう、矢口の目線は我々とシンクロしているのだ。矢口はもう完璧な"ゴジラファン"である。

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目を奪われるとは正にこの事。巨大不明生物に彼はすっかり魅了されてしまった。
名前を付けることに意味がある

 巨大不明生物はカヨコが持ってきた牧教授の資料から、大戸島に伝わる神「呉爾羅」にちなんだ名があり、英名で「GODZILLA」とされていることが分かる。ここで巨大不明生物が正式に"ゴジラ"とされるわけだ。この時の矢口の反応もまた面白い。「本来のゴジラにしよう」と言った時が妙に嬉しそうなのだ。まさに大好きな存在を名前で呼ぶことができたことに喜びを感じていると言っていい。大河内総理の「名前は付いている事が大切だ」という言葉通り、矢口にとって名前というのは重要だったのだ。名があるということはその存在を認めるということでもある。そう、この映画で明確に"虚構"である"ゴジラ"が認められ、"現実"となる。それは映画を観ている我々も同じだ。よく分からなかった生物に名が付き、「ああ、あの生物はゴジラなんだ」と安心するのである。

 この直後に赤坂が「名前なんてどうでもいい」と発言するのも面白い。現実主義者の赤坂を象徴するシーンだ。彼にはあの生物の存在は到底受け入れられないのだ。赤坂が"ゴジラ"と呼ぶことは一度もない点からしてもそれが窺える。矢口と赤坂はゴジラのスタンス対しても非常に対照的だ。

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いつまでも無名のままでは、あの生物はいつまでたっても「ゴジラ」にはならない。

ゴジラを神格化し始める矢口

 ゴジラが鎌倉さん(第4形態)に進化し、日本に再上陸する。ここから矢口のゴジラへの熱は更に増していく。

 まずはこの台詞「更に進化したゴジラ第4形態です」と言う場面。まるで推しの成長を自慢するオタクのようである。

 そして次。タバ作戦が失敗し、ゴジラが人間の手には負えない恐るべき生物だと判明する。ここで矢口が口にするのはまたしても恐れや戸惑いではない。作戦が失敗しているのにも関わらず、自衛隊のように悔しがったり、この先を憂うこともしない。「まさに人智を超えた完全生物か」とゴジラを神格化するかのような言動をする。いや、もう矢口にとっての神となっているのだろう。国家を守る立場の人間として徐々にズレてきている。

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彼にはもうゴジラしか見えていない。

ゴジラを実際に見れて感動の矢口

 米軍によるゴジラの攻撃が決定し、矢口らも政府官邸から避難することになるが、ここでようやく矢口はゴジラをこの目で見る。生ゴジである。

 「あれがゴジラか……」と呟き、その存在を見つめる彼は正に信じる神を見つめるかのよう。今までモニター越しの"虚構"でしかなかった存在が、ついに"現実"としてその前に現れたのだ。もし、ゴジラファンである我々の目の前にゴジラが実際に現れたとしたら、この矢口のように呟いてしまうだろう。

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矢口の目線はゴジラファンと大差ない。

ゴジラの出す"光"に魅入される矢口

 矢口がゴジラに魅了されている面が如実に表れている場面がここだ。

 俗にいう内閣総辞職ビームのシーン。ゴジラは米軍機の攻撃から身を守るために、光線状の放射線流を放つ。成す術もなく米軍機が叩き落されていくのを矢口は避難も忘れて食い入るように見つめる。志村に避難するよう言われるまでずっとである。ここが冒頭の部分と重なってくる。

 矢口はゴジラの脅威を目の当たりにしても尚、その圧倒的な力に魅了されている。いや、更にそれが強まったと言える。彼はどんどんゴジラに魅入られてしまう。矢口は神の光に照らされてしまったのだ。

 それはある意味カヨコも同様である。彼女はハッキリと「まさに神の化身」だと言う。矢口に比べればその力に恐怖している面は大きいだろうが、彼女もまたゴジラに魅了された一人と言えるだろう。

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ゴジラの光に釘付けとなる矢口。もはや神の光だ。

どうしても自らの手でゴジラを倒したい矢口

 矢口は恐らく自分がゴジラに魅了されていることに気付いていないだろう。ゴジラは日本を脅かす敵であり、倒さなければいけない存在だと考えているはずだ。

 核攻撃ではなく、日本のやり方でゴジラを倒そうと奮闘する彼の姿は正に"正義"の主人公だ。

 しかし、私はそこに彼の異様というか病的とも言えるこだわりを感じてしまう。

 「絶対に自分がゴジラを倒したい

 自分の信じるゴジラを、頭の固い官僚や核にこだわる米軍ではなく、誰よりもゴジラを分かっている自分が"ゴジラを倒すに相応しい"。そのように無意識に思っているようでならない。

激高するのはこだわっている証拠

 大人気水ドンシーンに、この矢口のこだわりが表れていると私は考えている。

 このシーンは、いなくなった者にすがっている志村に対し、もう残ったものでやるしかないと叱る要素とそれでも彼らに頼っていた自分、不安を隠せない自分への憤りで激高する場面だが、同時に「俺ではできないっていうのか!?」という彼の意地を見てしまう。

 「俺が残っているのになんでいなくなった者をアテにするのか?俺ならやれる!俺が一番ゴジラを上手く倒せるんだ!

 まさに愛憎。自分の神を自分の手で倒す。ゴジラに魅了された矢口だが、ゴジラをこのまま生かしておくわけにはいかないのは分かっている。なら、別の誰かに倒されるより自らの手で倒したい。神殺しへの執着を矢口は見せているのだ。

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「まずは君が落ち着け」誰もが真似した伝説の水ドンシーンだ。彼のゴジラ狂いも落ち着いて欲しいものである。

今の状況が楽しい矢口

 矢口が泉に何故政治家になったのか問われると、「政界には敵か味方しかいない。シンプルだ。性に合ってる」と答える。

 この"敵か味方しかいない"というのは正に今の日本の状況だ。敵はゴジラ、味方は自らが率いる巨災対含む日本だ。矢口の性にぴったりと当てはまる。

 矢口にとって"今の日本"は自分の性にあった理想的な世界だ。ゴジラが出現したことで、政界だけでなく日本そのものが敵か味方しかいないシンプルな構造になったのである。泉の問いに対して笑みを浮かべている点からしても、楽しくて仕方ないはずだ。

 彼こそが"ゴジラの出現を誰よりも喜んでいた"のではないかと私が考えるのはここである。

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今の状況こそ、矢口の好むシンプルさそのものだ。

巨災対に喝を入れる矢口

 生き残った巨災対メンバーに「最後までこの国を見捨てずにやろう」と矢口が演説するシーンは、ゴジラ打倒に我々も登場人物も一丸となる熱い場面だ。

 だが、矢口にとっては単にゴジラを打倒すればいいわけではない。自分がゴジラを倒すことが重要なのだ。だから"最後まで"と念を押す。ゴジラを倒すまでは絶対に諦めるなよ、逃げるなよということだ。例え日本が滅びる事になっても。

 ここら辺から矢口のある種のサイコパス的な側面が表れてきていると私は考えている。

赤坂に食ってかかる矢口

 ゴジラに熱核攻撃が行われると決まった後、矢口と赤坂は屋上で論争する。彼らのスタンスの違いが明確に分かる印象的なシーンだ。

 矢口は核攻撃を反対する。当然であろう。日本に三度目の核を落とすわけにはいかないからだ。だが、矢口にとってそれは建前だ。本音は核を落とされると自分がゴジラを倒すことが出来なくなってしまうところにある。彼のゴジラへのこだわりは止まる事を知らない。

ヤシオリ作戦部隊に対して「死んでくれ」と命じる矢口

 ヤシオリ作戦開始が決まり、舞台に対して演説する矢口の場面は正に日本が生きるか死ぬかは全員にかかっているのだと伝える感慨深い場面だ。

 ここで矢口は「生命の保証はできないが実行してほしい」とハッキリと述べる。つまり、「日本のために、ゴジラを倒すために死んでくれ」と言っているのだ。目的のためには手段を選ばない矢口のある種のサイコパスな面がここにあるように思う。

 だが、これは時には非情な決断をしなければならないリーダーとしての素質を矢口が備えているともいえる。国家的な危機に対し、犠牲を強いる決断ができるのは大きな利点だ。

 「国の為に、ゴジラを倒す為にその命を俺に預けてくれ」それを自らの口から表立って言える。責任は全て自分が背負う。次世代の日本を率いる器が彼には確かにあるのだ。

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包み隠さず、はっきりと告げる。ここまで言えるリーダーが果たしてどれくらいいるだろうか。

凍結したゴジラを前に決意表明する矢口

 ヤシオリ作戦により、ゴジラは凍結された。だが、それは一先ずの危機の回避であり、先延ばしにしたに過ぎない。明確にはゴジラを"倒していない"のだ。

 だから、矢口は「事態の終息には程遠い」と口にする。それはこれからの政界での戦い、日本の復興も意味しているだろう。だが、矢口にとってはそれだけではない「まだまだゴジラと戦える」ということも意味している。ゴジラがいる限り、日本は敵と味方しかいないシンプルな世界のままである。矢口にとって理想な世界が続く。そして、自らの神であるゴジラも健在だ。

 「またゴジラが動き出したら今度こそ俺が倒す。次は国のトップとして、総理大臣として」

 彼にとって総理大臣になることは重要ではない。自らが先頭に立ちゴジラを倒すことが重要なのだ。それには総理大臣になることが一番いい。今度は巨災対だけではない。自衛隊も含めて全てを自分で指揮し、神を倒す。そんな決意を彼はあの眼差しに込めている。

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こちらに力強い眼差しを向ける矢口。「次こそは必ず倒す。その時は君も一緒だ。俺に付いてきてくれるか?」そう問いかけているようだ。

 以上が、私が矢口に対して感じていることだ。妄想も多いにあるだろう。だが、矢口にとっての"好きにする"ことは自らの手でゴジラを倒すことであったのは間違いないだろう。

【アナ雪特集#4】『アナ雪2』メイキング第3話感想。「Show Yourself」あっさり存続が決まった件と『アナ雪2』は私小説?

 『アナと雪の女王2』メイキング『イントゥ・ジ・アンノウン』。3話もまた思うことがあったので感想を書く。ここまできたらメイキング全話の感想を書いていこうかと思う。メイキング最終回までお付き合いいただけると幸いである。

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「Show Yourself」あっさり存続

 今回衝撃だったのが「Show Yourself」の存続が冒頭であっさり決まったこと。というか既に決まっていた。

 前回あれだけ引っ張っていろいろ臭わせたのはなんだったのかと。いや、私が深読みし過ぎただけかもしれないが。

 私が前回どんな風に考えたのかはこちら。

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 あれ?胃が痛いおじさん(マーク氏)の活躍は?「Show Yourself」の冒頭は「ただいま」なんじゃ…?

 その変が全く無いんですけどぉ!?

 リー監督やロペス夫妻のアイディア、そしてマーク氏を始めとしたスタッフの力を結集して、あの素晴らしいシーンが生み出され、存続が決まるっていう流れでしょうそこは~!

 これが一番衝撃だよぉもう~!私の考察が迷子のよう~…

 いや、編集が入る以上はドキュメンタリーであっても半分はフィクションみたいなものである。もしかしたら、カットされた部分でいろいろな攻防があったかもしれない。

 でも、もっと詳しく残す事になった理由を知りたい…!決定打はなんなの?お~しえて!その理由を~!

 なんか痒いところに手が届かない面がありますよね、このドキュメンタリー。

 私が期待しすぎたのだろうが、とりあえず「Show Yourself」の存続が決まって何よりである。

 エルサを呼ぶ声の主、やっと決まる

 ここでようやく声の主が「イドゥナ」だと決まる。どうやら、ロペス夫妻が「All Is Found(魔法の川の子守唄)」のリプライズを入れ込んできたことで大きく前進したようだ。アートハランでお母さんが待っていることにしたのも夫妻のアイディアのようである。しかし、エルサが見るのはイドゥナの姿だが、それは何かしらのメタファーだという発言は特に無し。

 え?本当に呼んでたのはイドゥナその人ってことなの?霊魂が呼んでたの?さすがに?

 エルサを呼んでいたのは彼女自身だという解釈(おそらくコンセプトではこのはず)が成り立たなくなってしまいそうだが…

 まあ、イドゥナその人が呼んでいるというのは解釈の一つとしておきたいところだ。

 声の主に関しては全員納得したのかは分からないが、リー監督は「ただいま」って要素があればなんでも良かったのかも。そこはリー監督自身がこうだっていう確固たるアイディアがあって欲しかったが…。私は「ただいま」にこだわっていたリー監督が「せや、ママや!」って突破口を開いてくれるのかと期待していたのに。

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ノリノリのリー監督

まだあった!カットされた曲

「Show Yourself」存続が決まった代わりといってはあれだが、本編からカットされた曲があったようだ。

 それがマティアスとノーサルドラが歌う「See The Sky」という曲だ。どうやら、マティアスやノーサルドラについて説明する役割を担っていたようだが、その存在がかえってストーリーをややこしくしてしまい、案の定ストーリートラストでダメ出しをされてカットとなった。これにはマティアス役のスターリング・K・ブラウン氏も残念がっててかわいそうだったが。

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マティアスを演じたスターリング・K・ブラウン氏はキャラクター本人のモデルにもなった。

 それにしても、ストーリートラストで未だに「話についていけない」と言われるというのはどうなんだろうか…。

 話の流れ的に歌のことのようだが(カットで繋いでる感はあるが)、やはりストーリーに対して言ってるようにも思う。

 そして、「「Show Yourself」が残って良かったよ」「エルサが何者か知りたがるシーンをもっと前に入れたら?」って意見が出るあたり、『アナ雪』は外野の方が分かってそう疑惑が出てきたのだが…

 どうも他作品のクリエイターの方が『アナ雪2』をどういう方向性で作ったらいいのか明確なものがありそうな気がする。外野なのでかつてのラセターのように「こうしなさい」とは言えないんだろうけど…

 そこんところどうなんでしょうか?監督。

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前回同様、様々な意見が出たことだろう

やっぱりアクションゲームのステージに見えるアートハラン

 本編シーンや「THE ART OF アナと雪の女王2」のデザイン画で思ってはいたのだが、今回のメイキングで制作途中の3Dモデルが見れたことでよりそう思うようになった。

 完全に「スーパーマリオ64」みたいなステージである。ゲームにしたら面白んじゃないかとちょっと思った。

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64のゲームでありそうなやつ

ライダーのモデル

 他に印象に残ったエピソードといえば、クリス・バック監督の亡くなった息子さんの件だろう。

 やっぱりというか、キャラクターの一人であるライダーのモデルはバック監督の息子さんである故ライダー・バック氏だったようだ。

 性格がどこまで似てるかは分からないが、キャラクターに息子さんを投影していると考えて見るとその思い入れが伺える。

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ライダー・バック氏

バック監督の「今できること」

 バック監督の息子さんへの想いはキャラクターにだけでは止まっていないのではないかと思う。

 肉親の死というのは他人がどうこう言えるものではないほど重いものだ。

 なので、これは私の憶測ということにしていただきたいが、まだバック監督は息子さんの死を完全には乗り越えられてはいない。だけど、いつかは乗り越えなければならない。

 そんな想いが、終盤のアナに繋がるのでは

 エルサやオラフを失い、絶望に打ちひしがれるアナだが、それでもそれを受け入れて悲しみを抱えながらも「今できること」をする。

 これは息子さんを亡くした悲しみを抱えながらも『アナ雪2』を作り上げたバック監督と重なって見えてくる。

 「ディズニー映画は"前に進もう"という希望を与える」というバック監督の発言からしても、もしかしたらバック監督にとっての「今できること」が『アナ雪2』を作ることだったのかもしれない。

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パーティで息子さんへの想いを込めて熱唱するバック監督

『アナ雪2』は監督らの私小説

 「The Next Right Thing(わたしにできること)」の制作エピソードも興味深い。そこでは、クリステン・ベルが「鬱だった時の自分と重なる」という証言や、リー監督がいじめに合っていた時の話などがこのシーンに込められているということが語られた。

 これは前述のバック監督の件も含めて、ある意味『アナ雪2』は監督らの私小説と捉えることができるのではないだろうか。

 「The Next Right Thing」は本編の大トリを担う上に、作中でそのメッセージ性も含めて最も重要な曲であると考えると、私はそのように思えてならなかった。

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このシーンには多くの想いが込められているのだろう

 3話の感想はこんなところ。次回のタイトルは「大きな変更」だ。これは衝撃の事実が語られそうな気配。楽しみに待とうと思う。 

【アナ雪特集#3】『アナ雪2』メイキング第2話感想。ロペス夫妻の功績と胃が痛いおじさん。

 ディズニープラスで『アナ雪2』のメイキング「イントゥ・ジ・アンノウン」の第2話が公開された。そして、それがまたしても衝撃的な内容だったので1話に続いて感想を書くことにした。

 ちなみに前回のはこちら。

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 結構辛辣に書いたが、今回も辛らつになると思う。だが、作品そのものを叩いているわけではないことは分かって欲しい。

 開始早々ぶったまげ。作品がほとんど出来上がっていなかった事実が判明する。

 なんと、公開まで9ヶ月の時点でアニメーションが20%しか完成していないというではないか。大丈夫なんか?って感じだが、アニメーションは公開ギリギリまで作ってることが結構あるのであまり珍しいことではないとは思う。

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 しかし、本作の場合は結構事情が違ってくる。まず、歌もほとんどできていないし、エルサを呼ぶ声の主も決まっていない。更に衝撃なのが脚本をまだ書いていたのだ。

 これには私も「は?」となった。CGなどが出来ていないのは分かるのだが、まさか脚本すら完成していなかったとは。いや、ここは前回の話でなんとなく予感はしていたものの、声の主が決まらないとかそういった個々の問題が残っているくらいだと思っていたのだ。それがまだ執筆中とは……。しかも、リー監督がインタビューを受けているのは8ヶ月の時点である。前回のスクリーニング後に脚本を書き直す事にした可能性も大いにあるが、それにしたって遅れ過ぎなのは間違い無いだろう。

 そりゃあ、20%しか映画が出来ていないのもわかる。作品の土台となる脚本が未完成では作れるもんも作れない。非常に切羽詰まった状態だ。とりあえず、使うと確定しているシーンからアニメーションを作っておき、それを使ってティーザートレーラーを作ったようだ。剣を振るう勇ましいアナは無くなってしまったが。

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剣を振るう勇ましいアナ。このシーンは本編では使われなかったものの、反響の大きさから氷の剣を振るうシーンとして残る事になった。

 ここからは私の妄想だが、あのアナや真剣な表情で大勢のトナカイを率いるクリストフからして、最初は今の映画の姿とはかなり違っていた可能性がある。特に、出演者らがトレーラーを見た時の「ゲームオブスローンズみたいなR指定映画になるんじゃない?」って反応が面白い。まさにそうなりそうな内容だったのでは?もしかしたら、スピンオフ小説の「影のひそむ森」に近かった可能性がある。この小説が仮に映画化されたとしたら、間違いなくR指定になるか、どんなに頑張ってもPG12とかだろう。

 前作から6年も経ち、ファンの多くがそれなりに大人になっていることも考え、いっそ大々的に大人向けにしてしまえというのはあったかもしれない。現行の本編も子供には理解が難しい描写が多いので、その名残りはあるように思う。

 とにかく、作品が全く形になっていなかったというのはよく分かった。

クリストフのMVで大はしゃぎする皆さん

 面白かったのが、クリストフのMVである「Lost in the Woods」は満場一致で大絶賛だったことだ。他のシーンが全く出来上がっていないのに、なに故この歌を絶対使うという流れに?他のシーンが出来上がっていないのに。そう、出来上がっていないのに。うるさいわ!

 あの歌は全然悪いとは思わないし、あの見返り美人大天使アナちゃんを生み出しただけでも称賛に値するのだが、本編で絶対に必要だったかと言われると少し首をかしげざるを得ない。クリストフの「イントゥ・ジ・アンノウン」みたいな側面もあるし、彼の終盤の行動にも繋がるわけなので無いよりはあった方がいいのは間違いないが、この段階でねじ込むべきだったのかどうかということである。

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全員笑顔で拍手喝采。クレイジーである。

全員深夜テンションじゃねぇか

 この謎は「深夜3時のテンション」と言っていたロペス夫妻らの言葉から見えてきそうだ。恐らく、皆さん制作があまりにキツくて、変なものを作って(ごめんね、クリストフ)はっちゃけないとやってられなかったのだろう。それはあまりにも不可解なMVの内容からも分かる。私は所見では「いったい何を見せられているのか」と真顔になってしまった。いや、「ボヘミアン・ラプソディ」のMVを意識したシーンもあるし、80年代辺りのロックバラードのパロディなんだろうというのは分かったが、それにしたって常軌を逸していたからだ。

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ボヘミアン・ラプソディ」MVのパロディと思われるシーン。ちなみに、『アナ雪2』公開の一年前にクイーンの映画である「ボヘミアン・ラプソディ」が公開されている。スタッフはこの映画を見て影響を受けたのだろうか…。他に引用部分に気付いた方がいたら教えて欲しい。

 これはリピーターが彼のMVでトイレに行ってしまうのも分かる。特に見なくてもいいし、見ても不可解なものを見るだけだからである。私は最後のアナを見るために席を立つことは無かったが、寝てしまったことはある。最後のアナを見逃した時はショックであった。

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これだけでも価値のあるMVだ。トイレに行くなんてもったいない。

「Let It Go」に性別は関係ないんじゃない?

 気になったのがクリストフ役のジョナサン・グロスが「女の子には『Let It Go』があるけど、男の子にはどうなんだろう?」と言った点。

 彼の認識を責めるつもりは全くないのだが、「Let It Go」に性別は関係ないんじゃないかと。誰しもがエルサのようにレリゴーしたいという感情があるはずだからだ。それに男女関係なくエルサに感情移入し、彼女に成りたいと思うだろう。私もエルサになりたいし、結婚したい。

 だから、『アナ雪』には男の子の曲がないというのは間違いだと思う。

 おそらく、グロス氏は自分の演じるキャラクターに専用の曲ができたことが嬉しかったのだろうし、「クリストフの曲がないのはなんで?」と言われてきたこともあり、あのように発言したのだと思う。

 それに私のように拗らせたオタクと違って、多くの男の子は『Let It Go』にシンパシーを感じてもエルサが好きだとか成りたいだとかは言いにくいだろうから、「男の子向けの曲がない」という彼の認識はなんら間違いではない。

 そもそも、「Let It Go」が女性の解放の曲だというイメージが定着され過ぎている問題があるのかもしれない。 

「Show Yourself」をどうしても消したいスタジオ側と残したいロペス夫妻

 今回一番の衝撃は、『アナ雪2』の象徴というかほぼ全てと言ってもいい「Show Yourself」が存続の危機にあったということだ。

 いやいや、これが無かったら『アナ雪2』ではなくなっちゃうじゃないの!これを消してどうするの?という感じだが、リー監督らはどうしてもしっくりこなくて別の曲に変えたかったようである。いや、そこは変えずにどうしたらこの曲を残せるのかって方向で考えて欲しいのだが。まあ、初期の「Show Yourself」がどんなものだったかは分からないが、アニメーション含めてかなり難解でヘンテコなものだったような雰囲気もあるし、直した所でどうにもならんって考えたのかもしれない。

 だが、ここまでこの曲が頓挫してしまっているのは、そもそもエルサを呼ぶ声が誰なのかをハッキリと決めずに曲や絵を作らせたからじゃないのかと思わざるを得ない。エルサが声に呼ばれてたどり着く彼女にとっての最終地点なのに、そこが宙ぶらりんな状態ではどうやったって上手くいかないのではないのか。核が出来ていないのに物語を進めてしまっているのだ。これは、またしても前作の制作過程でラセターに指摘されたのと同じ過ちを犯しているようでならない。やはり"まるで成長していない"のだろうか……

前回でも紹介した前作の制作過程の裏話はこちら

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映画は進まないが、現場の雰囲気は良好

 頓挫している「Show Yourself」の代わりにリー監督が提示したのが「ただいま」であった。これにはロペス夫妻も「つまらん」って一刀両断するが(私も思った)、それに対してリー監督を始めとしたスタジオ側が大笑いしていたのがとても印象深い。リー監督がインタビューでも語っているように、本当に意見を言い合える関係性が出来上がっているのだと感じた。決してワンマンではなく、様々な意見を出せて聞ける環境が整っているのは良い職場だと思う。しんどい時はめっちゃしんどそうだけど、クリエイターがいろんな意味で死ぬことはなさそうだ。私もここでなら働きたいと思ってしまった。ただこれには欠点もあって、作家性が出しにくい。そこら辺がディズニー体制に変わった後の「スターウォーズ」の失敗にありそうな気がするが、それはここで語る事ではない。

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ダメ出しに大笑いするスタッフたち。とてもいい雰囲気だ。

「ただいま」という観点は悪くなかった説

 ちょっと話は戻るが、リー監督が代替え案とし提示した「ただいま」という要素は、現行の「Show Yourdelf」に取り入れられているのでないかと思う。特にイントロの「I can sense you there  Like a friend I've always known I'm arriving And it feels like I am home(あなたがそこにいるのを感じる。ずっと知っていた友達のように。着いたわ。まるで我が家のような気分ね)」という歌詞はまさに「ただいま」である。ロペス夫妻がリー監督の意見を元にイントロ部分を書き直した(付け加えた?)のだとしたら、リー監督は突破口を開いたのでは。ここは次のメイキングで明らかになるかもしれない。

「Let It Go」にとらわれすぎ?

 スタジオ側は「Show Yourself」に「Let It Go」よりもインパクトがないことを問題に感じていたようだが、そもそも「Let It Go」を超えることは不可能に近い。あの曲は『アナ雪』という作品そのものと言ってもいいような奇跡の名曲だ。アニメーションの素晴らしさもあって、あの曲一本で映画史に残り続けるだろう。それを目指していたら袋小路に迷い込むのは当然の成り行きだ。

 その点、ロペス夫妻は割とドライで「アナ雪2」でのエルサの成長の曲として書こうとしているように感じた。「ただいま」という曲では「Let It Go」に似すぎていてつまらないという観点もスタジオ側があの曲に囚われてしまっているのを的確に指摘していると言っていい。

 ただスタジオ側も間違ったことを言ってるわけではなくて、例えばリー監督の意見である「必要なのは感情の成長」というのは、まさに「Let It Go」に足りなかった部分なので、鋭い意見である。

 この両者の『アナ雪』という作品に対しての認識の差というかズレが見える点が、結構面白いパートだ。微妙にズレているスタジオ側に対し、「Show Yourself」がいかに本作に必要かを諭したロペス夫妻の功績は大きいだろう。出た否定的意見に対して意固地になるどころか、悪かった点を見つめ直して改めてこの曲を作ろうとしているのも素晴らしい。

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曲の行方が非常に怪しいのにへこたれていないロペス夫妻。強い。

胃が痛そうなストーリー監督、マーク・E・スミスさん

 今回はストーリー監督を務める、マーク・E・スミスが非常に印象に残った回でもあった。

 まず、常に苦笑いしたような表情が作品の切羽詰まった様子を体現しているし、監督や音楽チーム等のあらゆる方面からの要求を一身に背負っているようで、なんだかとっても胃が痛そうだ。醸し出す"良い人感"に非常に好感を抱いた。

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ストーリー監督のマーク・E・スミス

 それに彼の発言の節々から『アナ雪』を分かってる様子が伺える。むしろ、監督らより分かってそうですらある。

 例えば、「Show Yourselfはアナ雪1と2両方に跨るエルサの内面的な変化の頂点だ」という発言はまさにその通りと言う他ない。「Show Yourself」が暗礁に乗り上げてしまい「自分がダメにしたのかも。適任じゃないのでは…」と落ち込んでいるが、いやあなたは充分に適任だよと励ましてあげたくなった。

 スタジオが「Show Yourself」を削除する前提で会議している時に、彼も「この歌を残す理由が見つからないよね……」等の発言はしているが、おそらく前述の自分の仕事の至らなさからくるものだと思うし、「絵の方で凄いのにできるかも」と言っている辺り決して消したいと思ってるわけではなさそうだ(実際、素晴らしい映像ができあがったが)。どうにかして残したいロペス夫妻と同じ側かもしれない。

 もしかしたら、この人が『アナ雪2』を窮地から救った立役者の可能性がある。会議後に一人抜け出し、「まだ回復させる最後のチャンスがある」と言い静かに作業に移る様は、例えドキュメントの演出であってもそう思えてならない。

 1つのドキュメンタリーとしても非常に面白い本作。この胃が痛いおじさんなマーク氏の活躍も含めて大いに注目したい。

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彼が『アナ雪2』を窮地から救う救世主となるのか?窓から差し込む光が天からの啓示のようだ。

【アナ雪特集#2】『アナ雪2』メイキング第1話を見た感想。まるで成長していない?浮き彫りになった問題点。

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 ディズニープラスで『アナと雪の女王2』のメイキングである『イントゥ・ジ・アンノウン』の第1話が公開された。これが最初から結構衝撃的だったので、その感想を書いていこうかと思う。

 何が衝撃的だったかといえば、ストーリー・トラストの箇所。ここではスクリーニング後の率直な意見を他作品のクリエイターから聞くわけだが、そこで出たものがとにかく凄いのだ。

  • 「説得力ある答えに向けてまとまってはいるが、その答えに明瞭さがない」
  • 「彼女(エルサ)は闇に向かって落ちていったけど、それがよく理解できない」
  • 「結局エルサは何になったの?」
  • 「エルサが黙ってるのが変。アナに呼び声を聴いたと言ってもいいのでは?」
  • 「頭がかなり混乱した。納得できないことがいくつかある」
  • 「メモを取らないと内容が理解できない」  

  • 「声の主が人か川なのかを決めないと」
  • 「内容が分かりにくくて暗い」               

 おわかりいただけただろうか?これらは全て現行の本編にも言えることなのだ。

 つまり、『アナ雪2』はこれらの問題点をほとんど解消しない(できない)まま完成してしまったということである。どうしてこうなったのだろうか?他にも多くの指摘があっただろうが、これらを抜粋したのは意図的に思えてならない。

 そもそも、脚本の制作過程で解消されなければならない問題なのでは?。

 私がこれらの問題点の中でとくに衝撃を受けたのは、クリステン・アンダーソン=ロペスが言い放った「声の主が人か魔法の川なのかを決めないといけません」というもの。

 え?公開まで一年切ってるのに決まってなかったの…?って。

 てっきり、ジェニファー・リー監督が脚本の段階で決めてるもんだと思っていた。それが全くの宙ぶらりんだったとは…。てか、決めておかないと物語が上手く進まんのではなかとですか、リーさん?だから分けわからんって言われちゃうんだよぉ。散々指摘されて「作品が砕け散りそう」って凹んじゃう気持ちは凄くよく分かるけど。私もシナリオのフィードバックで同じような事を何度も言われたのでね…。

 私は「アナ雪特集#1」で『アナ雪2』をかなり絶賛気味に書いたが、その実かなり問題点も多い映画だとも思っている。

 

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  この映画が大好きなのは間違いないのだが、だからこそ見えてしまうものもある。何せ124回も劇場で見ているわけで…そんじょそこらの鑑賞数ではない。

 どこが問題に思っているのかは今回は詳細には書かないが、概ね上記のクリエイター陣が指摘したものと一緒だ。本作はテーマを入れ過ぎた故にごった煮の闇鍋状態で、何を取り出してもよく分からない。下手すると胸焼けを起こしそうなクリストフのスープだ。

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スクリーニングの様子。できれば全編見たいところだ。

 では、なぜこのような問題点が解消されないままになってしまったのか。メイキングの1話を見た段階での私の推測を述べていこう。

 まず、ジェニファー・リー監督らはまさかここまで問題点が出てくるとは思っておらず、しかしそれらを直そうにも後一年しかなくてほぼ不可能だった。いや、ただ指摘のあった部分を直せばいいじゃないかと思うかもしれないが、脚本上の問題点はただ直せばいいわけではない。一つを直すとそれに合わせる形で、他の箇所も直す必要が出てくる。下手すると脚本全体を書き直さなければいけなくなってしまうのだ。もちろんそんな時間はないので、目立つ粗を削るに止め、後の「よく分からない」と言われた部分はもうレリゴーして(開き直って)、観客の解釈に全て任せる形にしたのではなかろうか。実際、考察は凄く捗る。アート映画と捉えることも可能だろう。こうなったのを私は問題だとは思うが、悪いとまでは思っていない。

 もう一つは、監督らの構成力の問題。そもそも前作の『アナと雪の女王(原題:Frozen)』はスクリーニングで散々な評価を受け、何度か内容が大幅に変更されて今の姿に至った経緯がある。これについては、ディズニープラスに「アナと雪の女王のすべて」というメイキングがあるので視聴してみるのをおすすめする。他に制作の裏事情について詳細にまとめられた記事もある。

gendai.ismedia.jp この記事に書かれている事が概ね事実であるとすれば、今回もほとんど同じ指摘を受けているということになる。

 特にジョン・ラセターの指摘に注目したい。記事を引用するが「この映画の内部ではいくつかの異なるアイディアが競合している感じがする。エルサの物語があって、アナの物語があって、ハンス王子がいて、雪だるまのオラフがいる。どの物語にもすごくいいところがある。いや実際、素晴らしい素材がたくさん盛り込まれている。でもそれを、観客の心を摑むひとつの物語にまとめあげる必要がある。『核』がなくてはだめだ」という部分。これはハンス王子の部分をノーサルドラに、雪だるまのオラフを精霊などに置き換えると『アナ雪2』への指摘にそっくりそのまま変換できてしまう。

 私は本メイキング「イントゥ・ジ・アンノウン」を見た時、この記事や前作のメイキングを思い出し、「まるで成長していない……」という安西先生の言葉が浮かんでしまった。

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井上雄彦スラムダンク」(集英社、22巻)より

 前作から6年もあったのにいったい何をしていたのだろうか?彼らに基礎を教える人間はいるのか?仲間と上手くコミュニケートできていないように見える…と言うと言い過ぎだが、それくらい私には衝撃的だった。またしてもテーマを入れ過ぎて「核」が無くなってしまっているのだ。しかも、今回はそれが直っていない。大きな問題だと思う。

 今回も脚本から担当したジェニファー・リー監督はあの時のラセターらの指摘をしっかり肝に銘じて学ぶ事をしたのだろうか。それとも、例の件でラセターが退任した影響でそのイズムを学びきれなかったのか。ここは当事者ではないのでハッキリとは言えないにしろ、6年も経って同じ事を繰り返していてはいけないのではないか。少なくとも、公開まで一年を切った状態で出る指摘では無いとは思う。もっと時間があれば精査できたのかもしれないが…。

 ここら辺は脚本の制作段階から見れば分かるかもしれないが、今回のメイキングは公開までの一年間を追ったものなので、それは難しいかもしれない。まだ5話あるので何かしら見えるものが出てくることを期待したい。

 しかし、核が宙ぶらりんではあるにせよ、出来上がった映像と楽曲は素晴らしく、特にアニメーション演出はディズニー映画史上最高のものであると思う。私がエルサに結婚を申し込むレベルで美しい。これは間違いない。だからこそ、何がやりたいのかを明確にし、しっかりとした物語を作っていただきたかった。まあ、テーマ優先で内容がどこかに行ってしまうのは今のハリウッド映画全般の問題点ではあるのだが。

 

 以上、結構厳しめに書いたが、メイキングはまだ1話の段階だ。これから出てくる事実によっては大きく感想が変わる事もあるだろう。できればいい方向に変わって欲しいところだ。あの美しいアニメーションがどう作られていったのかを見るのも非常に楽しみである。

【アナ雪特集#1】『アナと雪の女王2』前作のアンチテーゼを盛り込み昇華させた、続編の傑作!

 

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 今回から私が劇場で124回視た『アナと雪の女王2』について語っていきます。またお付き合いいただけると幸いです。

 まずは前回までの「レリゴー」解説を読んでいただいた方、ありがとうございました。前後編合わせて3万5千字ほどあり、読むのが地獄で本当に申し訳ない…

 

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  それなりに好評をいただいたのですが、書く方も気合を入れ過ぎてかなりしんどかったので、今回から特集という形で記事を小出ししていこうかなぁと。『アナ雪』については書く事いっぱいあるので、題材には困らなそうですし。

 書きたい時に書きたいものを投稿していくので、前回までのようにガッツリとしたものにはならないかもしれませんけど、よろしくお願いします!

 

 

『アナ雪2』は前作へのアンチテーゼで作られている

 私が『アナ雪2』を見て思ったのは、これは前作のアンチテーゼだなと。

 「アンチテーゼ」とは、ある理論・主張を否定するために提出される反対の理論・主張のことです*1

 つまり、前作の否定ってことになるんですが、それだけでは終わらないのがこの『アナ雪』という作品の良さです。否定するだけでなく、それにちゃんと意味を持たせてより昇華させているのです。

 今回はこのアンチテーゼを中心とした説明をしていきます。

とりあえず両親のフォローします!

 前作のアグナルとイドゥナに関しては描写が少なかったのもありますが、あまり好意的な描かれ方はされていなかったと思います。私のレリゴー解説でも結構ボロクソに書きましたが、明らかにエルサの魔法を恐れていました。
 しかし、実の両親が本当にそれでいいのかと考えれば、当然いいわけがないんですね。じゃあ、ちょっとフォローしてあげようというのが、映画が始まってからタイトルが出るまでの一連のシーンと彼らが航海に出た理由の補完でしょう。
魔法に対するアグナルの描写の変化

 映画冒頭は楽しく魔法で遊ぶ幼いエルサとアナのシーンから始まりますが、そこにひょっこり「何してるんだ?」と現れるアグナルとイドゥナ。穏やかな表情からして、魔法で遊ぶことを咎めに来たわけではないのが分かります。

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微笑むアグナル。父親の顔です。

 前作では「もう手に負えない!」と魔法への恐怖心を見せていた両親でしたが、それとは雲泥の差の登場シーンですね。これも前作へのアンチテーゼと言っていいでしょう。

 前作での幼いエルサとアナは、両親に怒られるので隠れて魔法で遊んでいたような印象を抱いてしまうのですが、今作の両親の描写を見ると魔法で遊ぶことに関しては全く問題視していなかったということになります。これも両親の描写の変化です。

 しかし、こう両親の魔法へのスタンスが変化してしまうと、前作でエルサを閉じ込めるような対応をしないように思いますよね。そこは今作のメイン要素となる「魔法の森」で辻褄を合わせてきています。

 アグナルは「魔法の森」での出来事を語りますが、彼は魔法に魅了されたのと同時に死にかけるほどの怖い目にも会っていたことを教えてくれます。この彼の体験から考えると、アグナルは「エルサの魔法」を恐れていたのではなくて、魔法があの時のように牙をむく可能性を恐れていたということになるのでしょう。

 私はレリゴー解説で、エルサに手袋をはめさせてまで魔法を隠そうとしたのは「愛ゆえの恐れ」と述べましたが、アグナルは正に愛するエルサを魔法の牙から守ろうとしたと考えて良さそうです。

 魔法の森が霧に閉ざされたことで王国は安全だという両親の認識は、後に王国の門を閉じたことにも繋がってきそうです。アグナルらは魔法の森事件と同じように、それを閉ざせばエルサの魔法も暴走することなく安全であるはずだと考えたのでしょう。

 アグナルの魔法の森についての語りは、本作のストーリーベースを説明する要素でもありますが、それと同時に前作の補完と両親へのフォローが多く含まれているのではないでしょうか。

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魔法の森の描写はアグナルの補完でもある。
エルサを抱き上げるイドゥナ

 前作では喋るシーンもほとんどなかったイドゥナさんですが、本作では重要キャラクターとして破格の待遇を受けております(良かったですね)。

 そんなイドゥナさんは冒頭シーンでも大きな役割を担っています。子守歌として、本作のキーソングとも言うべき、「All Is Found(魔法の川の子守歌)」を歌います。エルサとアナを寄り添わせているところは、母として二人の子への愛情が非常に表れていると言えるでしょう。

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母としてのイドゥナ

 特にアナが眠った後に甘えるエルサを抱き上げるシーンは前作とは真逆とも言っていいほどの愛に溢れています。

 前作のエルサは魔法の存在ゆえに両親に甘えることすらできなかったような印象で、「Let It Go」の歌詞からしても顔色ばかり窺ってたんじゃないかと感じましたが、決してそんなことはなく、お母さんが大好きな子だったようです。

 イドゥナも同様に、前作では見守るだけだったり、魔法の力に怯えるエルサを抱きしめることができませんでしたが、本作ではしっかりとその腕で抱きしめています。エルサもとても幸せそうです。

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甘えるロリエルサ

 この直後に、あの悲劇*2が起こると思うと結構悲しくなりますけどね…。オープニングのエルサは、両親と過ごした最後の幸せだった夜を思い出していたんでしょう。

 このように冒頭シーンは単なる説明や回想でなく、前作では希薄な印象を受けた両親の愛情を描いていると言えるでしょう。

 悲劇で始まった前作の反転(アンチ)でもあると思います。

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思い出に浸るエルサ。冒頭のシーンは彼女の回想でした。
エルサのためだった航海

 ちょっと後半に飛んじゃいますけど、両親が航海に出た理由もフォローであるといえます。

 前作では2週間後に帰るという台詞などからしても、諸国外遊等の王家としての務めのような印象でした。しかし、実は魔法の源を突き止めるための航海でした。

 後付け設定ではありますが、私は直前のエルサと両親のやり取りからしても魔法の対処等の現状打破の為にどこかに頼りに行ったんじゃないかと解釈していたので、このエルサのための航海だったというのはかなり納得感があり、両親のフォローとしてはいい持っていき方だと思いました。

 城の門を閉じて、エルサの魔法を隠すという対処しかできなかった両親が実は我が子のために命を懸けて旅をしていたというのは、前作への両親のアンチテーゼと同時に昇華させているといえるでしょう。

 特にアグナルに「エルサのために…」と言わせたのは大きいでしょう。前作ではエルサの魔法を恐れ、下手するとエルサそのものを恐れていたと見られてもおかしくないアグナルがしっかりと父親としての愛があったと分かる台詞ですからね。

 まあ、いくら愛があったとしても前作の対応は間違ってることに変わりありませんが。しっかり、反省していただきたいところです。でも、思わせぶりなことを言うだけで何もしてくれない上に反省した様子も見えないパビーに比べれば、身命を賭してまでエルサを救おうとしただけ遥にマシです。

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エルサのためだった航海。ここで終わるのはさぞや無念だったことでしょう。

 両親に関してはこんなところでしょうか。ぶっちゃけ、本作はこの両親の描写に限らず、後付け設定まみれなので違和感を覚える部分が結構あるんですよね…。

 しかし、今回はそれには目を瞑り「忖度エンジン*3」をフルバーストさせて解説していきます。

変わるのは怖い、でも変わらなきゃいけない

 アンチテーゼというのは作品や続編を作る上での肝ではあるのですが、同時に今までとは違うことをやるわけであり、特に続編ではその作品の世界が好きなファンの反感を買いやすいという要素があります。

 『アナ雪2』も決して例外ではなく、下手な事をすると世界中から大批判を食らってしまいかねない…。だからといって、前回と同じ事をしても続編の意味が無い。

 結果的に、2は世界観やキャラクターをなんとか壊さずにアンチテーゼを取り入れることに成功したと言ってよいですが、それでも好きな作品が変わってしまうのはなんとなく嫌だったり、怖かったりしますよね。

 じゃあ、どうするか…っていう悩みを解決させたのが、ほぼ登場キャラクター全員で歌う「Some Thing Never Change(ずっとかわらないもの)」です。

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この曲を冒頭に持ってきたのは意味があるはずです。

キャラクターと観客の心をひとつに

 「Some Thing Never Change(ずっとかわらないもの)」は、ざっくり言えば「誰しもが成長して変化していく、でもそれってちょっと不安だし怖いよね。だけど、大丈夫。ずっと変わらないものはあるよ」って皆で歌う曲なわけですね(現状から目を晒すみたいな面もあるんですけど、そこは今回語りません)。

 これは要するに、続編を見る時の感情と非常によく似てるんですね。前作は一応ハッピーエンドで終わって、この幸せがずっと続くのだと思わせるものでした。スピンオフ2作品もその延長線上にあるもので、大きな変化は起きません。

 しかし、続編ともなれば当然変わってきますし、もしかしたら前回のハッピーエンドが覆ってしまうような結末が待っているかもしれない。そんな不安がどうしてもあります。

 「Some Thing Never Change」という曲は、変化を感じつつも「この幸せがずっと続きますように」という願いが込められている要素がありますから、前作の幸せが続いて欲しいという観客の想いがシンクロしているのではないかと思うのです。

 それでもやっぱり成長しないといけないよね、変わらないとダメだよねって我々も思っているわけで、じゃあそれをキャラクターに歌わせることでファンと心をひとつにしましょうと。共に変化に立ち向かっていこう、成長していきましょうというのがこの曲であると思います。オラフがカメラ目線になって第四の壁を越えてくるのも、それ故でしょう。

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前作から6年「お前ももう大人になったやろ?」とでも言いたげな顔

 この曲が冒頭にある点からしても、これから向かえる大きな変化と結末への準備をキャラクターと我々にさせていると考えることができます。キャラクターと感情を共有することで、変化を受け入れやすくなりますからね。エルサやアナも変化への恐怖があったのにそれを乗り越え、変化を受け入れたことを我々も共有しているわけなので、より彼女達の選択を応援できるというわけです。

 反感を買いやすいアンチテーゼを描くにあたって、実に上手い事やったなと思いましたね。それを喜んで見てしまう自分が悔しい…!

アンチ「Let It Go」な「Into the Unknown」

 前作の明確なアンチテーゼといったら、本作の代表曲である「Into the Unknown」です。これは完全に「Let It Go」とは真逆の曲で、正に『アナ雪2』が前作のアンチテーゼであることを示していると思います。

 その理由をここから解説していきますが、前回のレリゴー記事みたいに歌詞から描写まで全てやるとまた膨大な文字数になっちゃうので、ざっくりとしたものにします(いつか詳細にやりたいですけどね)。

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アンチ「Let It Go」な「Into the Unknown」

前回、扉をバーンと閉めちゃったエルサが今回はバーンと開く

 前作「Let It Go」との最大の違いといえば、扉の描写でしょうね。

 私のレリゴーに関してのスタンスはブログを読んでいただきたいですが、一言で言えば「ネガティブ」です。それは「The cold never bothered me anyway(どうせ寒さなんて平気なんだから)」という言葉と共に背を向けて扉をバーンと閉めてしまうことからも分かりますが、とにかく後ろ向きな曲です。何せ「ずっとここに閉じこもって暮らすんだ」って言ってるわけですからね(オラフが一人芝居で茶化してますよね)。

 しかし、今回の「Into the Unknown」では、なんとあの一人でいたいとか外に出たくないとネガティブなことばかり言っていたエルサが「未知の世界に出たい!」とか言い出すんですよ!そう「ポジティブ」なのです。

 前回は世の中に対して背を向けて「ちっとも寒くない」とか強がりを言って扉をバーンと閉めてしまいましたが、今回は過去や今の幸せなはずの生活に背を向けてバーンと扉を開き「Into the unknown!(未知の世界へ!)」と3回も繰り返すんですね。バルコニーで高らかに声を張り上げて(近所迷惑じゃないんですかね?)。

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背後に過去と現在の絵画がある点も注目。思い出や今の幸せに背を向けてでも未知の世界に出たいというエルサの心情を表しているのと同時に、まだ後ろ髪を引かれていることも示しているのでしょう。

 引きこもりのエルサが未知の世界の旅に出たいだなんて、本当に成長しましたよね。私は嬉しいよ(でも、引き籠ってたり怯えてるエルサもかわいいと思ってしまう…ジレンマ)。

 そういえば、前作で「扉を開いて」って歌ってた王子と王女がいましたよね。あれのやり直しでもあるのかな?

下にどんどん降りていくエルサ

 前作の「Let It Go」は曲のネガティブさに反して、山をどんどん登って行くんですが、「Into the Unknown」ではどんどん城の階段を下りていくんですね。

 これも前作とは真逆の表現ですね。

 下降表現は容易さや不可避性の暗示に使われることがありますが、物語の展開的に容易さを表現しているわけではないでしょうね。曲の内容的にも不可避性、一度動き出したら止まらない、自分の秘密を知りたくてたまらないということではないかと思います。

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「Let It Go」と違って、今回はどんどん降りていきます。

 過去を捨てたり女王であることを捨てたりして、とにかく開き直っていたレリゴーと違って、しっかり自分に向き合いたいというエルサの前向きな心が分かりますね。

 他に自分の心の声という深層心理に迫るという要素もありそうです。ここら辺の考察はまたいずれ…

 エルサの表情の変化

 「Into the Unknown」では表情の変化にも注目です。

 「Let It Go」では、エルサはドヤったり笑顔のシーンはあるんですが、それらは単に開き直りだったり、辛さを隠すものだったりしたわけですが、今回はそれが大きく変わります。

 「Into the Unknown」でも「声を聴く気はない」などと強がりを言ってはいますけど、終始強がりだった「Let It Go」に比べれば最終的に自分の正直な感情を吐露しますね。そして、何よりも後半の喜びに満ちた表情の数々がエルサの心を素直に表しています

 辛い表情や強がりではないその表情が、とても愛おしいです。

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喜びに打ち震える表情がとてもいいです。好き。

【進化「Let It Go」】な「Show Yourself」

 「アナ雪2」では恐らく一番の見せ場であろう「Show Yourself(みせて、あなたを)」はある意味究極の前作へのアンチテーゼであり、進化であると思います。

 言ってしまえば、この曲は「Let It Go」の完全なやり直しであり、その要素のほとんどが真逆です。

自分だけでなく「お前も見せろ」と言い出すエルサ

 前作からのエルサの心情の変化は「Into the Unknown」の項目で述べた通りですけど、ここではさらにその先へと向かいます。

 「私の準備はできたわ。さあ、あなたも自分を見せて」って言うんですね(なに?誘ってるの?)。

 「Let It Go」では自分を解放したように見えて、実はさらに閉じ籠ってしまい、開き直った結果、アレンデールをものすごい雪まみれにしてしまいました。しかし、今回は違います。開き直りではありません。エルサの言葉は本音となります。自分の悩みを素直に打ち明け、本当はどうしたいのかを叫ぶのです。真の意味での心の解放であり、正に「Let It Go」の進化といえるでしょう。

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「あなたの姿を見せて」私なら喜んで現れよう。
扉をバンバン開けていくエルサ

 レリゴーでは「背を向けて扉を閉めてしまうの」という言葉を繰り返し言ってましたが、今回は「私も扉を開いたんだから、お前も開けやオラァ!」とドヤ顔しながらバンバン扉を開いていきます。主に物理で。

 「絶対に進ませんぞ」と言わんばかりのアートハランの障害をアクションゲームみたいにクリアしていくという。どこであんな訓練したんですかね?それもアートハランにあるんでしょうか。教えてそれを。

 これも完全に前作との真逆、アンチテーゼですね。

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もう自信たっぷり。どこで修業したのか。アレンデールには精神と時の部屋でもあるんですかね?
ある種のやり直し。既視感ある描写の数々

 「Show Yourself」には明らかに「Lte It Go」を意識した描写が存在します。全部上げていくとキリがないのですが、最も既視感のある部分は「One moment more!(もうこれ以上!)」のシーンでしょうか

 ここは「Let It Go」での、エルサが暗黒面に足を踏み入れた瞬間の「I'm free!(私は自由よ!)」と類似する場面と言っていいでしょう。

 エルサはエレメントの中心に足を乗せますが、まさにレリゴーでの階段に足をかける場面と同一です。そして、この後エルサが"別の存在"へと変わる点においても同じです。異なるのは、前作ではネガティブな方向であったのに対し、本作ではポジティブな方向になっているという点でしょう。 

 新しい自分、本当の自分になるのです。

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今回は魔女ではなく全く別の存在に変わります。第5精霊になるというわけですが、むしろその上、神になったようにも見えます。
深層心理にたどり着くエルサ

 「Into the Unknown」の時と同じく、エルサはどんどん下に降りていきます。今度は階段では終わらず、地下深くへと進んでいきます。

 エルサを呼ぶ声が彼女自身の声だとするならば、まさに深層心理へと迫る、真実に迫っていると言えるでしょう。

 声の主を知りたい、自分の本当の気持ちを知りたい、求めだしたら止まらない、そんなエルサの心が底へとどんどん潜っていく描写に表れていると言えるでしょう。

 しかし、これは同時にどんどん闇へと近づいていく、呪われた真実へと近づいていくことであり、非常に危険でもあります。自信に満ち溢れているエルサですが、それは同時に慢心も生み、彼女自身を滅ぼしてしまいます。

 前作ではグレて魔女になった程度で終わりましたが、今回は命を失うまで突き進んでしまったわけですね。レリゴーのその先を描いたと言えるかもしれません。

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慢心したが故に「潜り過ぎると溺れてしまうわよ」という警告を無視したエルサは凍り付いてしまう。自分を犠牲にしたからこそ、真実にたどり着いた面もあるのですが。

 これらが「Show Yourself」は単なるアンチテーゼでは終わらない、進化レリゴーたる所以です。

  言ってしまえば「Into the Unknown」は完全な前座であり、そして対になっていると言えます。2つの曲が合わさることで、完全なものになるわけですね。

 余談ですが、アカデミー賞には「Into the Unknown」ではなく「Show Yourself」を出すべきだったんじゃないかと思います。世間的な知名度は前者でしょうけど、曲の完成度からしたら間違いなく後者ですし、今の時流にも合っているので十分狙えたでしょう。まあ、「アナ雪2」そのものもアカデミー長編アニメ賞ではノミネートすらされなかったので、ファンとしては残念ですがこれには納得感はあります。その辺はいずれ語ろうと思います。

記憶の間(雪像の間)こそアンチテーゼ

 エルサが精霊になった直後に過去の記憶が雪像として再現された空間が広がりますが、ここがまさしく本作が前作のアンチテーゼであると象徴しているシーンではないでしょうか。

 それは、エルサが自分がレリゴーしていた時の姿を見た反応にあります。あからさまに嫌そうというか、恥ずかしさで悶絶しそうな様子。そう、まさに自分の黒歴史ノートを見てしまった人そのもの。エルサにとってレリゴーは記憶の墓場に持っていきたい恥ずかしい過去なのです。それを無理やり見せつけられるという。

 つまり、「Let It Go」を明確に否定するシーンなのですが、何故こんな描写を持ってきたのかといえば、それはエルサがちゃんと成長できていることを示すためです。言い換えれば、アートハランに成長を試されているんです(単なる嫌がられかもしれませんが)。

 もし、ここでエルサがレリゴーの自分を誇らしげに見てしまったら、まるで成長していないことになります。前作でエルサはレリゴーの結果、アレンデールに嵐が吹き荒れる呪いをかけてしまいました。これは武勇伝でもなんでも忌まわしき過去です。つまり、「あの時のことをちゃんと反省してる?」「それに伴って成長できてる?」とエルサに問いかけているんです。エルサの反応次第では、過去の真相にたどり着けなったかもしれません。

 これは、前作から6年経った我々にも言えることだと思います。「Some Thing Never Change」での一緒に成長していきましょうというメッセージと地続きであるともいえるでしょう。

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「うわっ……」と目を背けるエルサ。かわいい。その後の「こんな事もあったわね」といった感じの表情も良いです。自分の中でちゃんと清算もできてる証拠ですね。

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エルサのレリゴーに対してのスタンスは、ジェスチャーゲームでオラフに自分の真似をされた時の反応でも表れていますね。「ふふっ……あの時は青かったわ」みたいな。

「今できること」をするアナ

 前作のアナといえば、明るいのはいいんだけど、あまり人の気持ちを考えなかったり、「キスして」って他力本願なところがあったりと結構勝手な部分の目立つキャラでした。

 それが今回は3年も経って落ち着いたのか、あるいは姉が危なっかしいので大人に成らざるを得なかったのか不明ですが、作中で一番まともな感じがしますね。エルサが好き過ぎてたまに周りが見えてない時ありますけども(僕と同じじゃないか!)。

 そんなアナも前作のアンチテーゼ的な要素を多く含んでいます。

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クリストフの妄想でも大活躍するアナ。可愛すぎる…

「もうあなたを離さない」手を握り続けるアナ

 前作のアナはのっけからの「For The First Time in Forever(生まれてはじめて)」で分かるように、今の生活が嫌で外に出たい、素敵な誰かに会いたいって思いが強かったですよね。

 しかし今回は「Some Thing Never Change(ずっとかわらないもの)」の一節にある「I'm holdin' on tight to you(心はひとつ※歌詞カードの翻訳は「あなたの手をしっかりと握っている」となってます。この歌詞は直訳すると「あなたを抱きしめている」になるので、歌詞カードの意味の方が近いと思います。)」からしても、今の生活がとても幸せでずっと続いて欲しいという気持ちが強いですよね。ここからして、本作のアナの心情は前作と真逆であるといえるでしょう。「I'm holdin' on tight to you…」と最後にアナが一人で改めて歌う点からしてもそれが窺えます。

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願いをより込めるように、魔法をかけ直すように一人歌うアナ。
エルサを掴んで離さないアナ

 今回のアナはエルサの手をギュッと握りしめて離さない描写が多いです。「ずっと離れないって約束して」と念を押していたり、エルサが一人で危険な事をした時は怒りを露わにしています。過去に自分がエルサに寄り添えなかった事で、彼女も王国も大変な状況になりましたからね。自分も被害者なんですが、アナは何よりもエルサを失うことを恐れているように見えます。

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「いいか?絶対に離すなよ!?」これはフラグですね。

 この"消失の恐怖"が今回アナが立ち向かわなければならない障害であり、それを乗り越えた先が「The Next Right Thing(わたしにできること)であるわけです。この辺はいずれ語るとしまして、アナは前作とは違って現状維持をとにかく望んでいるのがわかります。だって、せっかく大好きなお姉ちゃんと仲良く過ごせるようになったんですからね。気持ちは痛いほど分かりますわ……

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エルサが約束破った時はめちゃくちゃ怒りますしね。激おこぷんぷん丸です(古い?
エルサの気持ちをこれでもかと汲み取ろうとするアナ

 前作のアナは自分の考えを押し付けるばかりで、エルサの気持ちをほとんど汲み取ろうとしませんでした。そのせいで更に魔法の呪いを受けてしまう始末…。アレはエルサも悪いんですけどね…。

 しかし、今回のアナは違います!

 ジェスチャーゲームを退出したエルサを気遣いに行ったり、「エルサは立派だよ」ってヨイショしたり(これは前作でもやってますけども。「エルサならできるよ」って)、隠し事はせずに伝えて欲しいと言ったり、例のポーズ*4で悲しみに打ちひしがれているエルサに「エルサは尊い贈り物だよ」と最上級の愛の告白したりと、フォローしまくっています。前作と同一人物とは思えんくらいに他人を尊重しようとしていますな

 さすがは最終的に真実の愛は「愛すること」だと気付いたアナであるといえるでしょう。しかし、これはエルサを失うことの恐れからも来ており、とにかく姉を側に置いておきたい、手を離したくない「二人は一緒にいるのが一番だ」という独善的な感情から来ているようにも思います。ここら辺は前作の独りよがりな部分から変わっていないようにも見えますね。

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とにかくエルサをフォローするアナ。「エルサには私が必要だ」とエルサに思わせたいのだろうか。

他力本願だったアナが自分一人の力で闘う

 前作ではエルサに頼り、ハンスに頼り、クリストフに頼りととにかく他力本願だったアナ。しかし、今回は頼れる人のいない完全に一人な状態に叩き落されます。それがどれだけアナを絶望させたか察するに余りあります。だって、最愛のエルサもオラフもクリストフももう誰もいないんですから(クリストフは死んでないけどね!*5)。

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アナの勇姿「The Next Right Thing」を刮目せよ!
幸せだった日常はもう戻らない…けれど!

 エルサを失った悲しみで一晩中泣いたアナ。あれだけ守ろうとしたエルサとの日々がもう失われてしまったんですからね。幸せだった日々も、自分にとって道を照らしてくれる姉もいなくなり、もう無理だと頑張ることをやめようとします。

 また前回のように別の誰かにすがるのか。今回のアナはそうではないです。

 自分は魔法も使えないし非力だけれど、何かできることがあるはずだ。アナはそう自分に言い聞かせながら崖を登り始めます。この登るという表現はまさに困難に立ち向かっているということでもあります。前作では崖を登る事ができなかったアナが今回は少しずつ登って行くんですね。頑張れアナ!僕達がついているよ!

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この崖かなり高くないすか?落ちたら死ぬ高さを命綱無しで…ランボーみたいだ。いや、むしろトム・クルーズ
何か一つでも自分にできることを

 アナはエルサのように強力な魔法の力もないし、オラフのように分裂できる便利な身体もなく、クリストフのように森でMVすることもできません。

 そんな無力な自分だけど、何か一つでも自分にできることをして、そしてまたできることをしていく、一つずつ一歩ずつ、それなら自分にも可能だとアナは気付いたんですね。前作では他人任せだったアナですけど、今回は自分で乗り越えていこうとするのは大きな成長といえるでしょう。

未来の為に「今できること」

 洞窟から抜け出たアナは「When it's clear that everything will never be the same again?(全てがもう二度と同じにはならないっていうの?)」と大きく叫びます。

 「またあの日常が戻ってくることはある?いや、それはもうないのよ」という自問自答しているんでしょう。アナは守ろうとしていたものを捨てる決意をしたんです。そして、「今できること」をしようとするわけです。過去ではなくもう未来を見つめるしかないと。

 それが「To hear that voice(あの声を聴こう)」という部分に現れています。「あの声」とはエルサが凍る直前にアナに全てを託した声なのはもちろん、実はアナにもずっとアートハランからの声が聴こえていたということでもあるんですよ。それを彼女は無視していたんです。エルサとの日常の方が大事だったから。でも、その声をようやく彼女は受け入れたのです。ここは前作というよりも、本作のアナへのアンチテーゼといえますね。

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迷いと決意が入り混じりながら、それでももうやるべきことは見えている。そんな表情をしています。
他人にすがるのではなく協力を

 前作では自分のために他人にすがるばかりだったアナですが、本作は自分のためではなく、未来のために行動します。まさに前作の終盤で真実の愛に気付き、凍り付きながらエルサを救ったアナの姿です。アレンデールだけではなく、魔法の森を解放するために自分を危険に晒すわけです。ここは、前作と地続きなアップデートであると言えるでしょう。

  「今できること」の最終目標はダムをぶっ壊すことですが、アナ自身では到底無理な話です。なので、アナは協力を求めるわけですね。アースジャイアントには協力ってよりかは挑発した感じですが。

 マティアス達には説得することで道を切り開くわけですが、これは前作のアナでは無理だったでしょうね。なにせ、姉を説得することにすら失敗してましたから。ここは前作のアンチであると共に純粋なアナの成長と考えて良さそうです。

エルサの魔法は攻から守に

 エルサは前作もそうですが魔法を攻撃的に使っている事がほとんどでした。しかし、今回はアレンデールを洪水から救うという完全に守りとして魔法を使います。まさに守護者たるエルサの魔法であるといえます。彼女の魔法は攻撃だけではなく、何かを守るためにもなるということですね。

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こう大々的に魔法を守りに使ったのは初では。

別れる姉妹

 前作ではエルサもアレンデールに戻り、そのまま女王として暮らすことになりました。これは成長して元の場所に戻るという作劇の王道をなぞった展開であり、締まりとしては最適解です。

 しかし、同時に疑問も残って、エルサは国民に受け入れて貰えたけれど彼女自身はどうなのか。そもそも女王に向いてないんじゃないのか

 私はレリゴー解説で、エルサは魔女としても女王としても優しすぎたと述べましたが、まさにエルサはその優しさのあまり、時には非情にならなければならない女王という立場に相応しくないのではないかと思ったのです。まあ、向いていないながら一生懸命に女王として責務を果たそうとするエルサは魅力的であり、自分は好きですので、そんな女王がいてもいいと思うんですけどね。

 本作はそんなエルサの方向性を改めて問う内容であるわけですが、結果的にエルサは森で、アナはアレンデールで暮らす事になりました(もののけ姫ですね、分かります。)。

 前作の元の場所に戻るという結末とは真逆、まさにアンチテーゼといえますが、それで結末を決めたというよりかは、エルサとアナの長所を生かした方向性を考えたらこうなったというところでしょう。最近のハリウッドというかディズニーにありがちなパターンではあるので、ちょっと予想できましたが。

 完全な別離ではなく、時には会ったりしている余地を残している辺りまだ良心的でしょうか。別の場所にはいるけれど、「懸け橋」として姉妹の心は常に一緒だと考えることもできます。それでも寂しいものは寂しいですけどね。

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「一緒に……」という着地点は良かったです。

本当の意味でのエルサの解放

 本作のラストは、エルサの心からの笑顔で終わります。本当の意味で彼女は居場所を見つけて、心を解放できたということでしょう。

 周りに受け入れて貰うのではなく、自分を尊重しようというのは今の時代らしい結末です。

 ただ同時に、今回は完全に女王としての立場を放棄してしまったわけで、前作の「もう女王なんてどうでもいい」と王冠を投げ捨てたのと結局は同じなのではないかとも思ってしまうんですね。責任放棄はダメですよっていうのが前作の要素でもあったわけですが、今回はそれをやってしまっている感じがします。これも前作のアンチであるといえるのですが、女王の仕事はめっちゃ大変なはずなのに、それをアナに全部押し付けてしまったようにも見えてしまう。自分の気持ちばかり優先して、責任を放棄してしてしまっていいのか、果たしてそれは本当に最適解だったのか、エルサが女王に向いてないなら姉妹二人で協力してもっと良い国にしていこうっていう結末でも良かったようにも思います。

 しかし、それだと「懸け橋」にならないので、難しいところではありますね。エルサは王国が自分の居場所ではないと思っていましたし。

 まあ、エルサが幸せならOKです!今は彼女の門出を祝福しましょう。

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エルサ良かったね!落ち着いたら結婚しようね!

 以上、前作のアンチテーゼ的な側面で『アナ雪2』を語ってみました。かなり忖度エンジンを発動させたので、本音は実は違うみたいな部分もありますが、その辺は追々語るとして…。

 全然ザックリじゃなかったんですが、これでもまだ語っていない部分も多いので今後の特集でいろいろやっていけたらと思いますのでよろしくお願いします。ご意見ご感想もお待ちしております。

*1:Wikipedia引用

*2:前作冒頭のエルサの魔法がアナに直撃する事故

*3:ラッパーの宇多丸さんがパーソナリティーを務める「アフター6ジャンクション」の「スターウォーズEP9特集」で映画ライターである高橋ヨシキさんが繰り返し言い放った造語。明らかにおかしい設定や描写を否定するのではなく、「いや、きっとこういうことに違いない」とかなりの擁護(忖度)をして解釈し受け入れる行動、考え方の事。詳しくはそのラジオを聴くと早い。

*4:エルサが辛いときによくする、身体を両腕で包み込んで自分を抱きしめるようにするポーズ。レリゴーの解説記事で詳しく触れています。

*5:てか、あの時のアナはクリストフのこと完全に忘れてない?「あ、まだクリストフおったわ」って気付いても良さそうなんに。それだけエルサの死がショックだったんでしょうけども。忘れられちゃうクリストフ、かわいそかわいそなのです。

【解説!『アナと雪の女王』】2つの『Let It Go』とその真実(後編)

 前編で『Let It Go』の解説が一通り終わりましたので、ここからはそれ以降のストーリーをエルサを中心に掘り下げていき、もう一つの『Let It Go」に迫っていきます。

 前編を読まれていることを前提で語っていきますので、長くて申し訳ないんですが、なるべく前編を読んでから後編を読んでいただくと分かりやすいかなと思いますのでよろしくお願いします!

 

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 完全なる絶望へと誘われるエルサ

 魔女になる決意を固めたエルサ。扉を閉めた後は少し気分も落ち着き、「ここにずっと一人でいよう。そうすれば誰も傷つけないから」と考えていることでしょう。

 しかし、そうはさせじと言わんばかりに、エルサを完全に闇へ堕とそうとする試練が次々と待ち受けます。

 それは大きく分けて三段階あり、エルサを真の絶望へと導いていくのです。

説得に来たアナを拒絶してしまう

 アナは氷の宮殿に引き籠ってるエルサを発見し、一緒に問題を解決しようと説得を試みます。しかし、そんなアナをエルサは拒絶してしまい、不可抗力とはいえ更なる呪いをかけてしまいます。

 これがエルサを真の絶望へと堕とす第一段階目です。

 エルサがアナを拒絶してまで遠ざけたい理由は前編の『Let It Go』で解説した通りですが、そんなことは知りもしないアナは必死にエルサに歩みよろうとします。

 アナからしてみれば良かれと思っての行動なのですが、エルサからしてみれば何故アナは自分の気持ちを酌んでくれないのかと憤りが募るばかりなんですよね。

 それに、今エルサは「レリゴー」でグレてますからね。家出して一人で好き勝手しようって時に、真面目な妹がやってきて「ほら、姉さん帰るよ」って連れ戻そうとしたら、そりゃあ反発もしたくなります。「うるさいわね! 絶対に帰らないから!」って。駄目だこの姉…はやく結婚しないと…

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アナが「私が見えないのか?直ぐ側にいるのに」と言ってるのに聞いちゃいねぇですこの人

 おまけに「レリゴー」でちょっと自信が付いたように感じていたのに、氷には相変わらず恐怖に怯える自分の姿が映っているわけで…。しかも、あれだけ「嵐よ吹き荒れるがいい」と言っていたのに、本当にアレンデールで嵐が吹き荒れてると知ったら、自分が引き籠った理由を思い出してめちゃくちゃ後悔する始末。もうエルサの心は余裕がなくなってパンク寸前です。

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「レリゴー」する前と変わらない怯えた自分がいる

 それに、今更一緒に解決しようと言われたって無理に決まってるじゃないかと。「今まで一度だってそうしてこなかったし、あなたは何もしてくれなかったわよね」って。

 こういうと語弊があるかもですが、エルサはアナに対して"不信感"があるんですよ。

 それは何故かっていうと、「Do You Want to Build a Snowman?(雪だるまつくろう)」に描写されているんではないかと私は見ています。

 ちょっとこのシーンを見て欲しいです。両親が旅立つ直前の恐らく15歳になったアナがエルサの部屋の前を通るシーンです。

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アナはエルサの部屋を気にはするものの、何もせずに立ち去ってしまいます。

 ここずっと違和感があったんですよ。単にドアを叩かなかっただけではないのではと。

 ちょっと私の妄想も含めて考察しますと、恐らくアナはある時からエルサの部屋のドアを叩かなくなっちゃったんですね。離されてしばらくは「雪だるまつくろう」ってドアを叩いてたんでしょうけど、何度やってもエルサは出てこないから次第にアナも諦めて止めてしまったんじゃないかと。

 久々にドアを叩いたのは両親が死んでしまった時なのではないでしょうか。下手すると何年かぶりに。*1

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もっと早くに会おうとしていれば…

 「Do You Want to Build a Snowman?」という曲は、姉妹の決定的なすれ違いを描いた悲しい曲なのです。

 加えて「For The First Time in Forever(生まれてはじめて)」という曲ですが、こうしてすれ違った結果、距離ができてしまっている姉妹の歌でもあるんじゃないかと思うんですね。

 アナは皆に会える、素敵な誰かに会えるかもって歌いますけど、何故かエルサに会いたいとは言わないんですよ。エルサに期待するのを止めてしまったアナは別の誰かの愛を求めてしまってるんですね。

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エルサの戴冠式なのに「姉さんに会える」とは一言も言いません。

 心の奥ではエルサに会いたいという想いはあるんでしょうけど、面と向かって会うのはちょっと怖かったんだろうなと。それはエルサも同じで、アナを守るために引き籠ったのに、いつの間に自分を守る事の方に心が向いてしまっていました。そこら辺は戴冠式でのぎくしゃくした感じにも表れてますよね。お互いになんか距離があるという。

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お互いに相手の出方を窺う感じが色々とリアルですね…

 だからエルサはアナを拒んでしまうわけですね。ずっとろくに会話してこなかったのに、あなたに私の何がわかるのか。ちょっとドアを叩いていただけで、なぜ私が閉じ籠ったのか分かろうともしない。何も力の無いあなたが一緒に問題を解決しようなんて無理を言わないで欲しいと。

 正直、かなり独善的ですよね。「レリゴー」後のエルサなので、今までの鬱憤が溢れ出てしまっており、仕方ない面もあるんですが……。アナと対話する気がないという。

 ただ、これはアナにも言えることでもあるんです。

 「For The First Time in Forever(Reprise)」でアナはエルサなら問題を解決できる、一緒にやれば大丈夫だと言うんですが、自分の考えを押し付けるばかりでエルサの話を聞こうとして無いんですね。エルサは「危険だから帰って欲しい」と訴えるんですが、アナはその理由も聞かずに「一緒に行こう」と言うばかり。お互いの主張は平行線のまま、できてしまった溝が全く埋まらずに、最終的にエルサの「できないものはできない!」という強い拒絶と共に決裂し、エルサの凍った心がアナの心も蝕んでしまうという最悪の展開になります。あんなにアナを守ろうとしていたのに、エルサは内なる怒りと恐れに支配されて、逆にアナの命を危険に陥れてしまうとは悲劇としかいいようがありません。すれ違う心は溢れる涙に濡れ……

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エルサの凍った心がアナを貫く。また過去と同じ悲劇を起こしてしまうのです。

 なんでこうなってしまったのかというと、二人共受け身なんですよ。「自分のことを分かって欲しい」っていう。もっと言えば「愛してくれよ」なんですね。閉ざされた愛に向かい、叫び続けているんです。

 ここが実は『アナ雪』の「真実の愛」というテーマに繋がる重要な部分だったりするんですけど、それは最後の方でまとめて説明することにします。

本当の魔女に成りかけてしまう

 アナを追い返した後、エルサは渦巻く感情を抑え込もうと自分に言い聞かせ続けます。

 しかし、不可抗力とはいえ、アナをまた傷つけてしまったことで、心は落ち着きを取り戻すことはないく、氷の結晶がどんどん鋭くなっていき「どうでもいい。嵐よ吹き荒れろ」と開き直ってしまったエルサの想いに乗じて、魔法が暴走を始めてしまっています。

  このシーンの色彩表現からもエルサの心理描写が見て取れます。

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強い色彩で危険な雰囲気を醸し出しています。

 エルサの背後は黒と赤、手前は深い青で構成されています。それぞれの色の意味合いとしては以下の意味が考えられます。

  • 黒:絶望・孤独・悪
  • 赤:危険・争い・恐れ
  • 青:不安・悲しみ・冷酷

  負の感情に飲み込まれていっている描写であり、氷の棘がエルサの方に向いていることからも、パビーの予言の通りに恐れが敵となっているんです。

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パビーの見せた幻影とも同じ色なので、エルサに危機が迫っていることも教えているのでしょう。
ハンスの襲撃

 エルサは等々ハンス率いる討伐隊に襲撃されます。

 ここでエルサは自分の身を守るためではあっても、感情の赴くままに行動してしまい、人を殺しかけてしまいます。

 このシーンでは、背景がほぼ黄色一色になっているのが印象深いですね。黄色は本来なら明るいイメージの色ですが、ここではそうではないことは明白なので別の要素があると考えるべきでしょう。

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まるで警告を表すかのように黄色一色です。

 黄色は「緊張」や「転機」を表す色でもあるそうなので、いわゆるターニングポイントと見ることができそうです。

 つまり、エルサは本当に魔女になってしまうのか、それともまだ人間でいるのかの瀬戸際ということですね。

 何故なら、エルサはここでは明確な殺意をもって人に攻撃をしているからです。

 完全に正当防衛なんですけど、人を直接殺めてしまうのは最後の一線を越えることになりますから、ここでもし兵士の誰かを殺していたらエルサは二度と元の彼女に戻ることは無かったでしょう。

 これがエルサを真の絶望へと堕とす第二段階目です。人を殺そうとしてしまった自分へ恐怖するのです。

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エルサは感情に身を任せてしまい、人を殺めかける。

 エルサを止めたのがハンスというのがなんとも皮肉なところですね。自分をよく見せるため、そしてエルサを利用するためにもここで亡き者にしてしまうのは得策ではないと思ったんでしょうが、結果的に「化け物になってはいけない」という言葉が彼女を救うことになりました。ここでの言葉は、果たして計算だけで出たものなのでしょうか。とっくに化け物になっている自分自身にも言っているような気がするんです。彼の中にまだ僅かに残っている善のハンスが言わせのではと……

 私はハンスに関しては元々は善人だったが、兄たちに愛して貰えなかった故に暗黒面に堕ちた哀しき人であり、もし真実の愛を知ることができなかったら……というエルサやアナの映し鏡的な存在だと解釈していますが、そこら辺を語るとまた長くなっちゃうのでまたの機会にします。

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ハンスは多くの謎を秘めている

深い絶望へと堕ちる

 ギリギリのところで魔女になることを回避したエルサですが、囚われの身となってしまいます。今度は自分の部屋ではなく、完全な牢獄であり、禍々しい手枷まではめられています。

 手袋を捨て、マントを捨て、王冠まで捨てて女王であることを放棄したのに、アレンデール王国はエルサを自由になんてしてくれないのです。

 そして、エルサはこの時初めて自分の犯した過ちをこの目で見ることになります。

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アレンデールの惨状を目にするエルサ

 「なんてことをしたのか」と自分を責めたことでしょう。しかし、自分では元に戻す方法がわからない。ここでようやくアナと協力することを考えますが、アナはここにはいない。もうエルサが思いつくことは、少しでもアレンデールから離れれば魔法の効果が薄まるんじゃないかということくらいですが、そんなの無駄だと言わんばかりに嵐は強くなるばかりです。「嵐よ吹き荒れろ」とエルサが呪いをかけたが故に……。

逃げることすら許されないエルサ

 エルサは魔法で手枷を壊して脱出しますが、そこにハンスが迫ります。

 この時点では、恐らくハンスの本性には気付いていないエルサは「アナをお願い」と妹を託します。自分の魔法の呪いをハンスなら何とかしてくれると思ったのでしょう。

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「妹をお願い」ここでもなお、優しさを失っていませんでした。

 しかし、エルサは衝撃の事実を知らされます。「アナは死んだ」と…しかも、自分の魔法によって。

 実際にはアナはまだ死んでないのですが、エルサは紛れもない事実だと受け取ったはずです。何故なら、過去に自分の魔法でアナが危機に陥った上に、今のアレンデールの現状、そして再びアナに呪いをかけてしまったわけですから。

 アナの死を告げられたエルサは大きく泣き崩れます。アナを守るためにこれまで必死に孤独に耐えて生きてきたのに、それが全て無駄になったわけですからね。生きる糧を失ったエルサの心は完全に折れてしまいました。ここでエルサはついに深い絶望へと堕とされるのです。

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エルサはついに心が折れてしまう

 その瞬間、あれだけ激しく吹き荒れていた嵐がピタッと止み、氷の結晶が宙を漂います。とても美しいのですが、同時に恐ろしくもありますね。嵐の前の静けさといった状態です。

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 これは「雪だるまつくろう」の最後のシーンにあったものと同じで、エルサの心が極限まで悲しみや絶望に堕ちた時に起きる現象ということでしょうね。これまで、どんなに落ち込んでもこの現象が起きなかったのにアナの死で起きたということは、それだけアナを大切に思っていたのでしょう。前編で述べたように自ら部屋に閉じこもってまで守りたかったわけですから。

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両親が死んだ時も同じ現象が起きています。

 この後は更なる嵐が起きるか、気温が著しく下がり、世界を凍らせるでしょう。人間は残らず凍りついてしまうことと思います。唯一、氷の魔法を使えるエルサを除いて。

「一人にして欲しい」というエルサの望みを魔法が叶えようとしているんですね。魔法は常にエルサの味方なんです。矢を射られた時に盾を作ったように、魔法はエルサを守り、そして愛しているんですよ。彼女はそれに気付いてませんが。

死を選ぶエルサ

 泣き崩れたエルサをハンスが手をかけようと剣を振り上げますが、彼女は泣き続けるだけです。恐らく、エルサはハンスの行動に気付いていたと思います。しかし、エルサは何もしません。彼女の魔法であれば簡単に防ぐことができるはずなのに。

 もうエルサは深い絶望に堕ちていますから、何か行動を起こす気力がないということもありますが、もう一つ理由があります。それは「死を選んだ」ということです。

 アナは魔法の呪いで死んだわけで、要は自分が殺したようなものです。そして、アレンデールはどんどん雪で覆われていく。その魔法を解く手段は自分にはない。ならば自分が死ねば魔法が解けるか最悪でも嵐は収まるかもしれない…エルサはそう考えたんですね。ずっと閉じこもることしかしてこなかった彼女は、もう最後はそれしか方法を思いつかなかったのです。

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エルサ!後ろ、後ろ! しかし、清々しいほどの悪人顔だなハンスよ…

 あの「レリゴー」の時と同じように開き直って、今度こそ魔女として氷の魔法で暴虐の限りを尽くすこともできたはずですが、エルサにはそんな選択肢は持ち合わせていません。それは、前編で解説したようにエルサがいい人間だからです。ここまで絶望しても、彼女は暗黒面に堕ちきれなかったんですね。エルサはアナは救えなかったが、せめて国の人々は救おうとハンスに殺されることを選んだのです。人を傷つけないために最後まで自分を犠牲にしようとしたんですね。

 エルサは魔女なるにしても一国の女王としても優しすぎたんです。

 やっぱり結婚しよう…

アナの愛がエルサを救う

 ハンスの狂気がエルサを貫こうとしたその時、死んだはずのアナが目の前に立ちはだかり、自身が凍り付きながらも剣を受け止めます。

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アナがハンスの前に立ちはだかる

 アナもまた自分の命を投げ出してまでエルサを救おうとしたんです。あれだけ誰かから愛されることを待ち続けたアナでしたが、大切なのは自分が愛することなんだと気付いたということです。「For The First Time in Forever(Reprise)」では、お互いに「分かってくれよ」「愛してくれよ」で全く噛み合いませんでしたが、ここでようやく「あなたを愛します」に変わるんですね。

 この「誰かを愛する」という受動ではなく能動的な想いが「真実の愛というわけです。

 アナがなぜこれに気付けたのかは、クリストフが瀕死の彼女を必死に城まで運んだ事ももちろんですが、一番はやはりオラフの存在でしょう。

 オラフはアナにはっきりと「愛というのは自分より人の事を大切に思うことだ」と言います。彼は最初から真実の愛がなんなのか分かっていたんです。もう答えは出ていたんですね。オラフはハグが好きで「ぎゅーって抱きしめて」って言いますけど、相手を抱きしめるというのはその人を大切に思っていないとできないんですよね。だからオラフは「抱きしめて」って、相手の愛を確認していたんじゃないかと思うのです。

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オラフはアナに真実の愛は何かを教えます。
オラフはエルサとアナの子供

 何故オラフが真実の愛を分かっていたのかですが、彼がエルサとアナの子供だからです。

 「何言ってんだこいつ?」と思ったかもしれませんが、決して私が姉妹カプを拗らせたとかそういうわけではありません(そうかもしれませんけど)

 オラフはエルサが生み出したので、まず彼女の側面を多く持っています。ハグが好きというのはエルサのずっと抱きしめて欲しいという思いから来てるでしょうし、凍りかけているアナを自分が溶けてしまう危険を顧みずに暖炉に火をともして近くまで運んであげた行動は、大切な人のために自分を犠牲にするエルサそのものです。そして、前向きで軽快であり、エルサの事を誰よりも分かっているところはアナですよね。さらに言うと、本当はお互いのことを大切に思っていて、とっくに真実の愛を知っているはずのエルサとアナの心も受け継いでいるんです。だから、生まれたばかりであるのに愛がなんなのか分かっているオラフはエルサとアナの子供なんです。

アナの呪いを解いたのはエルサではなく、アナ自身

 一度は完全に凍ってしまったアナでしたが、その直後に魔法が解けて息を吹き返します。

 ここはエルサがアナを抱きしめながら泣いているので、エルサの愛がアナの呪いを解いたと思われがちですがそうではありません。呪いを解いたのはアナ自身です。

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アナは自ら呪いに打ち勝つ

 先に述べたように、真実の愛とは大切な人を愛することです。つまり、それに沿った行動をすればパビーの野郎が言ったように呪いが解けるということになります。アナはエルサを助けるために、自分が助かる可能性を捨てました。「自分よりも人のことを想う」それができたアナは呪いに打ち勝つことができたわけですね。エルサに「I ove you」と伝えたことからも分かります。これは『アナ雪』本編で初めて出た本当に愛を伝える言葉でもありますね*2

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やっと手を取り合えた二人。美しい愛です。

 恐らく、アナがクリストフの方に真っすぐ向かったとしても呪いは解けなかったでしょう。大切なのは誰かにキスをしてもらうなど他人に委ねるのではなく、問題の本質を見つめて理解し、自ら行動して解決すること。これこそが「アナ雪」の重要なテーマであるといえるでしょう。

 アナは愛が何かを理解しましたが、エルサの方はどうなのか。もちろん、彼女も愛を理解しました。アナの決死の行動によって。

エルサにとっての真実の愛とは何か

 真実の愛は自分よりも他の誰かを大切に思うことで間違い無いですが、エルサに限って言えばもう一つあります。それは自分を愛することです。

 エルサは自分が側にいると傷つける、危険な力を持つ悪い人間だとひたすら自分を否定してきました。「Let It Go」で自己肯定したように見えますが、前編で解説したようにあれはグレた上の開き直りでより後退してしまいました。

 そんなエルサの心の呪いを解くには本当の意味での自己肯定しかありません。グレた状態のエルサではそれは無理ですが、アナの自己犠牲によってライトサイドに帰還した(更生した)彼女はようやく自分を見つめ直すことができるようになります。

 遅れてきた反抗期も短い期間で終わりましたね。よかったよかった。

 オラフの「真実の愛だけが凍った心を溶かす*3」という言葉でエルサは「そうよ、愛よ!」と魔法が制御できるようになります。

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エルサも愛が何かを思い出す

 彼女はやっと思い出したんですね。元々自分の魔法が好きだったこと、アナが大好きな氷の魔法を愛していたことを

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いいですよね、このシーン。綺麗で。

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ちょっと「ピーターパン」っぽい?

 エルサは幼少期の頃を見ていれば分かりますが、魔法を制御できないなんてことはないんです。前編で、アナの事故や両親(後パビー)の誤った行動でエルサは自分が悪い人間だと思い込んだと述べましたが、同じように魔法も制御できないのだと思い込んでいたんですね。

 アナがなぜあんなに「エルサは魔法を制御できる」と言い続けていたのかはこういう事なんです。魔法の記憶を失くしていても、エルサの魔法が大好きだった時の心は残っていて、それに突き動かされていたのでしょう。

 魔法がエルサを愛していたように、自分も魔法を愛すればいんだと気付いたエルサは本当の意味で魔法を解き放ち、もう隠す事をしなくなります。「Let it go(これでいいんだ)」と。

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魔法を完全に制御するエルサ
短いが重要なラストのスケートシーン

 スケートシーンは単にエルサが皆に受け入れて貰えたことを示すだけのシーンではないでしょう。

 ここでは、スケートはできないというアナにエルサが「絶対できるわ」と一緒に滑ります。これは、今までアナが「エルサなら絶対に魔法を操れるよ」と言い続けていたのをエルサが「そんなの無理よ」と返していたやり取りと対になってるんです。立場は逆転していますが、あのネガティブの塊だったエルサが「絶対できる」なんて言うとは…。その成長に感動です。姉妹が一緒なら、アレンデールも救えるし、スケートだって滑れるんです尊いですねぇ。

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仲良しスケート

 スクリーンディレクション*4的にもエルサが明確にポジティブである右方向に移動している貴重なシーンでもあります。グイっとアナを右に引っ張っていくんです。

 最後に音楽にも注目して欲しいです。ここで流れる曲は「For The First Time in Forever(生まれてはじめて)」と「Do You Want to Build a Snowman?(雪だるまつくろう)」のフレーズが含まれています(サントラでは「EPILOGUE」と題されてる曲ですね)。この2つの曲は、事前に解説でも述べた通り、姉妹の決定的なすれ違いを描いた曲でしたが、ここでは全く意味が変わります。

 ここでこれらの曲が流れるという事は、すれ違っていた姉妹の関係が完全に修復されて、元の仲の良い姉妹に戻りましたよってことなんです。エルサはあの時は誰にも会いたくないけど戴冠式だからと無理に門を開きましたが、「もう二度と門は閉じない」という言葉通り、ここでは心から門を開いています。エルサに会うことが怖かったアナも、今でもずっと一緒にいたいと思っているでしょう。正に姉妹の心の変化を描写していますよね。この後もエルサとアナはずっと仲良く暮らしましたってことなんでしょう*5エンドロールでも同様の曲で締めくくられている辺り、それは確かです。素敵なラストだと思います。

 スケートのシーンは短いですが、今までの出来事全てが清算されたに等しい重要なシーンなのです。

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ところで、これは“ドヤ顔”に入るんですかね?個人的には微妙なラインですが、入るとすればこの後エルサはスケートでコケるんじゃないかと思うんですね。

※エルサの“ドヤ顔”については、前編の「エルサドヤ顔のジンクス」を参照ください。

間違いの清算

 前編で『アナ雪』はエルサも周りも間違い続け、それを清算する物語だと述べました。では、その清算方法は何かですが、もうお分かりの通り「愛すること」です。

 エルサの魔法を恐れ、抱きしめる事ができずに枷を嵌めて牢獄に閉じ込めてしまった両親、エルサの部屋を叩くだけで歩み寄らなかったアナ、自分を否定して閉じこもったエルサ。

 それぞれが愛することができずに起きた悲劇を“愛すること”で清算するなんてとても美しいですよね。『アナ雪』はいいよなぁ、うんうん。

もう一つの『Let It Go』

 ついに来ましたよ、もう一つの『Let It Go』を語る時が!

 これのためにここまで長々と解説してきたといっても過言ではありません。

 あれ? でも、アナ雪本編はもう終わってるんじゃ…?と思うかもしれませんがまだあります!それは“エンドロール”です。

真の『Lte It Go』はエンドロールにある

 なんのこっちゃといったところですが、『アナ雪』の本当のラストシーンはエンドロールです。

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エンドロールです

 エンドロールでは雪山の【第一『Lte It Go(以下第一)』】とは違う、アップテンポの『Lte It Go(本家はデミ・ロヴァ―ト。吹き替えはMay J.)』が流れます。

 これは単なるカバー曲ではなく、本編後のエルサの心情を歌っている…私はそう思います!

 『Let It Go』は前編で散々解説したように、めちゃくちゃネガティブな曲です。でも、それだけで本当に終わっていい曲なのか? そんなわけがありません。

 真実の愛を知ったエルサはもう魔法も自分も恐れてはおらず、前よりも前向きになったはずです。ならば、このエンドロールで流れる『Let lt Go』はポジティブでないとおかしいのです。わざわざテンポを変えたものを流すわけですからね。意味がないわけがないと。

 その根拠に歌詞も微妙に違っているんですね。しかも、少しの違いで全く別の曲になっています。では、それをここから解説していきます。

※歌詞カードか本編のエンドロールを見ながら読んでね!

全ての言葉がポジティブに

 まず、最初の「Let it go , let it go~Couldn't keep it in」までの歌詞は今までの回想でしょう。『第一』では現状を歌っていたものでしたが、それらが全て過去のものになりました。もう魔法を隠す必要も閉じこもる必要もなくなったのだから、気にする必要はなくなったんですね。

 「Let it go ! ,let it go (これでいい、かまわない)」はもちろん完全にポジティブな意味になっています。そして、『第一』であれだけ言っていた「Let the storm rage on(嵐よ吹き荒れろ)」を一度も言いません。もう呪いをかけていないわけですね。

 「And here I stand and here I'll stay(ここから二度と動かない)」は『第一』では氷のお城に引き籠って全体に動かんぞー!っていうネガティブ極まりないものでしたが、ここでは皆ともう一度一緒にいたいからアレンデールで暮らすんだという前向きな「動かない」になっています。

 「Turn my buck and slam the door(ドアを勢いよく閉めるのよ)」は言うんですが、これも『第一』のような過去を全て否定し、もうどうでもいいんだっていうネガティブなものではなく、自分を愛せなかったダメな自分とはおさらばして、もうくよくよしないんだという前向きなものでしょうね。

 さらに、単なる強がりでしかなかった「The cold never bothered me anyway(寒さなんて全く平気なんだから)」が本心になりました。前編で解説したように「少しも寒くない」とドヤ顔したところで心は寒いままでしたが、今のエルサには大好きな妹も側にいますし、オラフという新しい家族もでき、自分の魔法に恐れる事もありません。

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 歌詞の変更も重要なポイントです。『第一』の「It's time to see~I'm free !」,までのグレてしまった箇所の歌詞がごっそり抜けて「Up here in the cold thin air. I finally can breathe.I know I left a life behind. But I'm too relieved to grieve(冷たく薄い空気の中にいるとやっと息ができる。でも、私はすっかり気が楽になって悲しむ気にもなれない)」という歌詞になっています。エルサの心境の変化がよく表れています。「まだ一人でいる方が楽ではあるけど、だからと言ってもう悲しまないわ」ともう『第一』の時のような開き直っただけの自由ではなくなったということでしょう。

 そしてそして、一番曲調が変わる「Standing~In the snow」の部分です。これは新たに追加された歌詞ですので、エルサの新たな心情を歌ったものでしょう。一番重要なので部分部分で見ていきます。

 「Standing Frozen In the life I've chosen You Won't Find me(自分が選んだ生き方で凍ったまま立っている私をあなたは見つけることができないでしょう)」の部分。「自分が選んだ生き方」は正にアナを守るために閉じこもる事にした13年間の人生で「凍ったまま立っている私」はその13年間ですっかり心が冷え切ってしまい、レリゴーで開き直ってアレンデールを雪で覆いつくしたエルサのことでしょう。「あなた」はエルサ自身のことです。つまり、「もう過ちは犯さない。心の凍った自分はもう消えたから悲しもうとしても無駄よ」ってことでしょうね。それと、これは私の妄想的な解釈になりますが、既にこの時点であの「レリゴー」は過ちだったと彼女は認識しているのではないでしょうか*6。だって、短い間とはいえグレちゃったわけですからね。おまけに国をあんなに雪だらけにして。反省しないとダメです。で、反省したんですからやっぱりエルサはいい子なんです。

  続く「The past is all behind me Buried In the snow(過去は全て去り、雪の中に埋もれている)」ですが、これはもうそのままの意味ですよね。辛く寂しかった過去は、これから始まる幸せな人生が雪のように覆ってくれると。

 ものすごいポジティブですよね。『第一』ではあんなにネガティブだったのに。「Let it go」で歌が終わるのもいいです。エルサが「これでいいのよ」って前向きになったのが分かって。

 私はこの【第二『Let It Go』】、いや【真『Let It Go』】というべきですかね。これを聞くと、エルサは救われたんだなって幸せな気持ちになります。エルサが伸び伸びと楽しそうに魔法を使っている姿が想像できますよね。同じ歌なのにこんなにも意味が変わってしまうなんて素晴らしいと思いませんか?

 『アナ雪』はエンドロールが真のエンディングなのです(おまけ映像もありますけどね)。だから、ここで席を立ったり帰ってはいけません。最後まで見ないと。

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映し出される模様の数々はエルサが魔法で作ったんだと思います。
日本語吹き替え版の歌詞はEDでは適切

 私は前編で日本語吹き替え版の歌詞は変えられ過ぎていて“この時点”では適切ではないと述べました。何故“この時点”と書いたのかといえば、エンドロールでは適切になるからなんです。

 吹き替え版の歌詞はほぼ全てポジティブな意味に変えられています。だからこそ、エルサの心境が変化した後のエンドロールにぴったりなんです。

 May J.が歌うエンドロール版は松たか子版とほぼ歌詞は一緒ですが、一部変更されている箇所があります。それは先程解説した箇所と同様の部分を意訳した「ずっとずっと泣いていたけど、きっときっと幸せになれる。もっと輝くの」です。例のごとく、原語と大分違いますが今のエルサにはぴったりな翻訳でしょう。

 もし、『Let It Go』の翻訳が本編ではなるべく原語に沿ったもので、エンドロールでは現行の吹き替え版翻訳であったのなら映画を的確に表現したものになり、より素晴らしいものになったのではないかなぁと思うんですよね。まあ、マーケティング的にはあれで正しかったんでしょうけど。

 私は吹き替え版の歌詞は本編では的確ではないとは言いましたが、『Let It Go』がネガティブな曲だという前提で見れば、吹き替え版の歌詞はエンドロールでも変化が少ないためにダブルミーニングが強調されているとも取れ、深みが増していると言えるかもしれません。

 『Let It Go』はいいねぇ。そう感じないか? アナ雪ファンの諸君。

最後に

 これで、2つの『Let It Go』の解説を終わります。これが『アナ雪』だ!真実だ!と偉そうに言うつもりはありませんが、この映画をより好きになって貰えたら幸いです。

 長くなって本当にすまないと思っているんですが、まだ『アナ雪』の全てを語ったわけではありません。特にアナについては、まだ十分に振れていませんしね。

 『アナ雪』は、また個別に特集でも組んで語ろうと思ってます。2も語らないといけないですしね。その時はまたよろしくお願いします!

 それでは、ここまで読んでいただきありがとうございました!

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 参考資料

*1:ただし、この辺は短編の「家族の思い出」で、実はアナは毎年オラフのクリスマスカード等をエルサに送っていたというフォローというか後付け設定が追加されてしまったので、ちょっと弱くなっちゃうんですけどね。あのエピソードも好きではあるんですけども、戴冠式の時のぎくしゃくした感じや、アナが初めてオラフを見た時の反応などに説得力がなくなってきちゃうんで余計だったんじゃないかなぁとも思います。少なくともこの『アナ雪1』の時点では、久々にドアを叩いたのは両親が死んでしまった時なのではないかという解釈をしています。

*2:字幕や吹き替えの訳も悪くはないですが、ここは素直に「愛してるからよ」とか「大好きだから」にして欲しかったなぁと思います。

*3:ここでも彼がキーマンですね

*4:前編のスクリーンディレクションの項目を参照ください

*5:2で別々に暮らす事にはなりますけど、心は一つですし、たまに会ってるようですので別離でありませんよね。

*6:2で黒歴史的な扱いをされている「レリゴー」ですが、ここをその伏線として無理やり繋げる事もできそうです。